先日、私の長年のクライアントであり友人のA氏と、久しぶりに近況シェアリング、意見交換のDDDを持ちました。。。DDDというのは、Drink,Dinner&Discussionの略の私の造語で、結構気に入って使っています。 その時A氏が、最初は企画スタッフとして、また最近は事業ラインの長、執行役員としての、十数年にわたる活用で感じたディシジョンマネジメントの有用性につきシェアしてくださったのですが、その中でとくに「互いの違いの明確化が、衆知の結集の出発点になる」という言葉が印象に残りました。 ビジョン・ステートメントやフォース・フィールド・ダイアグラム等を使ってディスカッションを行うなかで、互いに考えていること、知っていること、成し遂げたいことが違うことが理解し合え、それが逆に、チームとしてのベクトル合わせのベースとなり、衆知の結集の出発点になる、ということです。 互いの表面上の違いの背景まで理解しあうことで、その背景について互いが共感を持って認識できればこそ、「この先、ここから一緒にチームとしてこの課題に立ち向かっていこう」という気にもなれるのです。もともとの発想・知識・認識のベースが違うとわかれば、逆に、互いの表面上の意見の違いにショックを受けたり不信感を持つことも少なくなるのです。 この「違いの認識」がないと、「なぜあいつらはこんなことをやるんだ?!/言うんだ?!」という相互不信のスパイラル的増大が起こってくるわけです。。。国と国との相互不信・憎悪の関係も、「相手が自分たちとはまるで違う前提・認識から出発している」という基本を忘れて、「自分たちの正義の尺度からすると相手は悪魔だ!」という、いわゆるDevilize(=悪魔化)という心理状況になるわけです。 鬼束ちひろの曲の中に「有害な正しさ」という歌詞があり、印象に残っているのですが、互いが互いの(自分たち自身はそうと気づいていない)狭い正義感にもとづいて相手を悪魔とみることは、たがいにとって非常に不幸な結果につながりかねないのです。。。尖閣諸島をめぐる最近の動きなど見ていると、私なども偏狭なナショナリズム感情がふつふつと湧いてきて、「いかんいかん」と自分に言い聞かせています。 その意味で、A氏の「互いの違いの明確化が、衆知の結集の出発点」という言葉は、きわめて貴重かつ示唆に富む観点だと思った次第です。
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