[チャレンジして成功しなかった状況は、「失敗」と言わずに「不成功」と呼ぶべし]というメッセージはこれまで何回も発信してきました。なのですが、今回またこの問題意識を刺激する2つの記事に出会ったので、あらためて論じてみます。
まず1つ目の記事です。①[失敗が許容される社会とは 個人のマインドセットとともに組織文化や働く環境が変わらなければ(2023年8月6日付日経新聞朝刊のコラム記事「文化時評」より)]…「失敗を奨励する文化が必要だ」と東京大学大学院の柳川範之教授(経済学)は話す。常に正しい答えが出せて間違えない。これまでの日本の学校教育や入試ではそんな人材が優秀とみなされてきた。手堅く失敗しないエリートが中央官僚になり成長を支えた。同時に失敗を認めない行政の「無謬神話」の土壌を生んできた。第2次世界大戦で無差別爆撃を主導した米国の将軍は「無能なものと不運なものを区別している余裕はない」とまさに問答無用。部下たちにどんな理由であれ失敗を許さない厳しい規律を課していたそうだ。これは戦時の軍隊での発言だが、戦後ある時期までの日本はこの発言に通底する「戦闘モード」にあったのかもしれない。居住滞在型インキュベーション施設運営のフェニクシーを京都市に設立した連続起業家(シリアルアントレプレナー)、久能祐子さんは「挑戦する環境を若者に与えることが起業を促す目的だ。自分で考えたことを自分でやると決め、実際に実行してみることがいちばん大事」と話す。ゼロからイチを生み出すスタートアップの場合、起業家自らのアイデアが実現可能なのかを知る概念実証(プルーフ・オブ・コンセプト)が第一の目的。結果がイエスであれノーであれ、「恐れずにその事実に向き合うことが大事で、ノーだとしても、それはいわゆる『失敗』とは別物だ」とも。⇒「常に正しい答えが出せて間違えない。これまでの日本の学校教育や入試ではそんな人材が優秀とみなされてきた。手堅く失敗しないエリートが中央官僚になり成長を支えた」。これ、ずい分前から、いわゆる「識者」と呼ばれる人達が様々な機会に発信してきたメッセージだと思います。個人的には「受験や入試で唯一の正しい解を効率的に出す為の勉強をした」という意識はあまりなく、解を導く為の有効な考え方を身につけたと認識していることもあり、私自身は課題にとり組んだとき、「絶対の正解を見いだすことができるはず、その正解が見い出せねば失敗」という考えは全くありません。そういう意味では、絶対の真理を追求するサイエンスではなく、課題を解決/克服/実現する、その時点で最も有効性の高い実務的なやり方を見い出す、というエンジニアリング的思考が性に合っています。(もともとそうだったと思っているのですが、もしかすると、これまでの人生での思考や経験を通じて「最初からそう思う傾向があった」と勘違いしているのかもしれませんが。)いずれにしろ、「唯一の正解にたどりつかない試行は全て失敗」とみなすのでなく、「概念実証(プルーフ・オブ・コンセプト)で当初の仮説が成りたたないことが解明されたという成果」と受けとめるべし、というメッセージには大賛成です。さらに進めて私の持論的には、今後は「挑戦」の結果としての「成功」以外の状況は「失敗」と呼ぶのをやめて、「不成功」、さらには「未成功」あるいは「学び」と呼ぶことを提唱したいと思います。なお途中で出てくる第2次世界大戦での米国の将軍の言葉「無能なものと不運なものを区別している余裕はない」というのは、強烈ですね。個人も企業も組織も、新しいことにチャレンジし、数多くの「未成功」を通じて、より良い未来を作る為には、是非こうした「戦闘モード」に陥らないことが重要です。(「戦闘モード」になった瞬間、多くの人は、「不運」になるリスクを恐れて挑戦しなくなるからです。)その為には、平時で切羽つまっていない、まだゆとりのある状況の時から、「失敗を恐れて何もチャレンジしない状況」を打破すべきなのです。読者の方々の属する企業において、企業理念なりパーパス/ミッション/ビジョンの中に、「我が社は○○分野において、常に新たな価値創造に挑戦し続け、数多くの未成功を通じて、願う社会の実現に貢献します」という文言を入れて頂きたいものと期待しています。(これに近い企業理念を建前上は謳っている企業は実は多いのですが、実態はそれに程遠い企業が多いと感じています。「未成功」という言葉を入れて、そのもともとの「進取の精神」の実現・実行に邁進して頂きたいものと切に願います。)
②[「良い失敗」した人をほめよ(2023年8月16日付日経新聞朝刊のコラム記事「教育岩盤」での東京大学名誉教授 畑村洋太郎氏へのインタビュー記事より)]日本の教育は物事に必ず一つの正解があると考え、それを効率的に得ることを重視する「正解主義」に染まってきた。失敗を創造につなげる「失敗学」の提唱者として知られる畑村洋太郎・東京大名誉教授は、社会全体が「失敗」と「正解」に関する考え方を変えるべきだと主張する。「新しい価値の創造には仮説を立て、検証することの繰り返しが必要で、それは良い失敗と表裏一体だ」日本は古代から一千年以上、中国や西欧の立派なものを学び取り、自分のものにするのが最善という考えでやってきた。正解を吸収することが学びで、それを効率的にできる人が賢いと考える『優等生文化』が成立した私は現地・現場・現人の『三現』と言っている。現地に足を運び、現物を見て、人の話を聞いたり議論したりして学ぶ「本当の正解は仮説・実行の繰り返しを経てつくるものだ。仮説の精度を上げるには基礎的な知識が必要だし、それには三現が役に立つ。失敗確率を下げるため、失敗経験を皆で共有し合う必要もある」⇒基本的なメッセージは先程の記事の柳川先生と同じだと思います。その意味で、畑村先生の主張に大賛同なのですが、私の目から見ると、言葉のはしばしに、まだ「正解」幻想が残っているように感じられます。「本当の正解は仮説・実行の繰り返しを経てつくるものだ」とありますが、私に言わせると「本当の正解があるはずだ」という思い込みがみられます。唯一の「本当の正解」にたどりつく/見つけ出すのではなく、「その時点で最も有効性の高いやり方=『納得・有効解』をつくり出す」だと思います。また「失敗経験を皆で共有し合う必要もある」のはその通りなのですが、その前の「失敗確率を下げるため」は、やはり「失敗」は悪いこと/避けたいことという暗黙の前提が払拭しきれていないように感じます。ここは、「これまでの未成功経験を共有しあうことで、今後の挑戦の成功確率を上げ、かつ今後の未成功の質を高めて、より大きな/ワクワクする未来を作れるように一緒に取り組んで行こう!」と言ってほしいと思います。以上、柳川先生と畑村先生という両巨頭の言葉を聞いた上での感想・コメントです。若干難クセづけ、言葉尻をとらえたあげ足とり的になっているかと思いますが、私の信条の核心に関連することなので、あえて文章にしてみました。多少でも読者の方々の参考になれば幸いです。P.S.最近よく、NHKの「我が社の黒歴史」という番組を見ています。様々な企業のいわゆる「失敗事例」(私の言葉でいえば「未成功事例」)を取り上げ、そこでの関係者の人間ドラマと葛藤を興味深く描くものです。「失敗」にかかわった人物達が実際にスタジオにも登場して、その時に何を考えていたか、何に喜び、どんな苦労をしたかを語ります。多分、そういった番組制作の構成上、あるいは制約上、「失敗」によってキャリアを潰されたり挫折して会社を去った人達は登場しないのですが、大変興味深い話が聞けます。この番組を見て強く感じるのは、「失敗」を「我が社の黒歴史」として語るものの、そうした「未成功」が、必ず何らかの形で(その後のリベンジ戦の成功のみならず、別の文脈・機会などで生かされることで)その後の企業の発展に役立っていることです。また、登場人物達が「失敗」によって出世やキャリアを潰されていなさそうなことです。(もちろん、TV番組として作っているので、若干「きれいごと」にはなっているのでしょうが。)もし読者の皆さんが、「未成功」という言葉がしっくり来ない場合は、ユーモアのニュアンスを持たせて「誇れる黒歴史」という言葉を使うのも、ありかもしれませんね。
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