① 人の一生はわずかなものじゃ。わしはわが身を利とすることでこの世を送りとうはない。 というのが、松右衛門の口ぐせであった。かれがもしこの帆布製作を秘密にし、製造を独占しておれば巨万の富を積んだにちがいないが、実際の儲けはそれを売った喜多家のほうが大きかったろうし、また類似品の製造者の儲けも大きかったにちがいない。 「松右衛門さんは変わったお人で、他人があの人の帆で儲けるのを見てよろこんでいた」 と、重右衛門が嘉兵衛にいったことがあるが、松右衛門の思想と意図が、この帆を世にひろめて船乗りの難渋(なんじゅう)を救うというところにあった以上、よろこぶのが当然であったろう。
② 人として天下の益ならん事を計らず、碌々(ろくろく)として一生を過さんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし。
③ このことばは、江戸中期以後、商人の一部に芽生えはじめた公共思想を考える上でおもしろい。この種の公共思想は、主君への忠誠心という絶対的なものが精神を拘束している諸藩の藩士層からは、容易に出なかった。 「人として天下に益することを考えずに、為すことなしに一生をすごすのは禽獣よりも劣る」という松右衛門のことばはまことに激しい思想で、この理屈を一歩押しすすめれば封禄階級の武士のほとんどが禽獣より劣るということになる。