最近読んだ「ピダハン ~「言語本能」を超える文化と世界観~」という本の感想です。内容説明の帯には、次のような刺激的な言葉が書かれています。 【言語を作るのは本当に本能か? 数がない、「右と左」の概念も、色名もない、神もいない。。。あらゆる西欧的な普遍幻想を揺さぶる、ピダハンの認知の世界】 著者はダニエル・L・エヴェレットというアメリカ人の言語学者で、もともとはキリスト教の伝道師としてアマゾン先住民族のピダハン族の言語を研究し、それをもとに聖書をピダハン語訳して布教する目的で、ピダハンの人たちと暮らし研究していたのですが、ピダハンと接する中で自分自身の価値観を揺り動かされ、結局キリスト教を捨てて無神論になり、それに伴い家族とも別れた、非常にドラマティックな人生を送っている人です。 この本を読んで、Diversity—人間の多様性—について考えさせられました。以下、印象に残ったところの抜粋です。 ********************************************* ピダハンの・・・価値観とは・・・語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに限定する・・・ピダハンの言語と文化は、直接的な体験ではないことを話してはならないという文化の制約を受けている・・・自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し、それ以外の時間に関することには言及しない・・・この言語では・・・いわゆる完了形や断言にならない埋め込み文などは存在しない・・・ ・・・ピダハンの血縁関係が単純なことも直接体験の法則で説明できる・・・平均して45年生きるピダハンにとって、祖父母は現実に見える相手だが、曽祖父母はそうではない・・・だから血縁者の中に曽祖父母は含まれない・・・この原則は歴史や創世神話、口述の民話などが欠如している理由も説明してくれる・・・ ・・・わたしは・・・いかなる文化にももれなくあるはずの人類創世物語を記録しようと意気込んだ・・・だが成果は何ひとつ得られなかった・・・ ・・・ピダハンでは、人は人生の区切りごとに同じ人間ではなくなる・・・「・・・おれは以前コーホイと呼ばれていたが、そいつは行ってしまって、今ここにはティアーアバハイがいる」・・・ ・・・ピダハンとともにいて突拍子もないことを見聞きしても、最後にはたいてい、そこにわたしがすぐには気づけなかった真実が含まれているのを悟らせられることになる・・・ ・・・方向を知ろうとするとき、かれらは全員、わたしたちがやるように右手、左手など自分の体を使うのではなく、地形を用いる・・・「左手」「右手」にあたる単語はどうしても見つけることができなかった・・・ピダハンが方向を知るのに川を使うことがわかって初めて・・・街へ出かけたとき彼らが最初に「川はどこだ?」と尋ねる理由がわかった。世界の中での自分の位置関係を知りたがっていたわけだ!・・・ ・・・これはある意味で、あらゆるコミュニケーションにともなう問題でもある・・・自分自身が慣れ親しんだコミュニケーション上の約束事を離れ、異なる約束事の立場から物事を見ようとする。それは、科学でも、夫と妻、親と子、上司と部下というような、仕事や家庭の領域でも起こりうる問題だ・・・わたしたちは対話の相手が何を言っているかたいていわかっているつもりだが、対話をよくよく調べてみると、かなりの部分を誤解しているとわかることがある・・・ ・・・わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。けれどももし、文化に引きずられてわたしたちの視野が制限されるとするなら、その視野が役に立たない環境においては、文化が世界の見方をゆがめ、わたしたちを不利な状況に追いやることになる・・・ ・・・ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ・・・ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方はかれらの価値観に入る余地がないのだ・・・ ・・・ピダハンは自分たちの生存にとって有用なものを選び取り、文化を築いてきた。自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のことをすべて知りうるとも思わない・・・ ・・・いまこうしてわたしがあるのは、神の不在をなんら動揺することなく受け入れられていることも含めて、少なくとも部分的にはピダハンのおかげだといって間違いない・・・ ・・・ピダハンは・・・わたしの知るかぎり、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない・・・わたしの知り合ったどんなキリスト教徒よりも、ほかのどんな宗教を標榜する人々よりも、幸福で、自分たちの環境に順応しきった人々であるとさえ、言ってしまいたい気がする ********************************************* ピダハンの人達の持つ価値観のかなりの部分に、私自身、共感するところがあり、大変興味深く、哲学的な意味で考えさせられましたが、今回のブログの主旨はそちらではなく、「グローバリゼーションの中では、常にDiversityを意識することが重要」ということです。つまり。。。 ピダハンくらい、今の我々と違う価値観や前提で生きている人たちでも、その生きている現在の状況や生きてきた歴史的背景をいったん知ると、その違いの理由は、十分な共感を持って理解できる。しかし、そうした背景を知らなければ「こいつら到底理解できない、あり得ない!」となってしまいます。 要は、何を見ても考えても、知らず知らずのうちに自分の生まれ育った環境や体験からくる「暗黙の前提」にとらわれてしまっている可能性が常にある、ということです。 ですから、他の民族・人種・宗教あるいは性別など、「いつもの仲間」でない人々とやり取りする時には、「(暗黙の前提における)想定外は、想定内!」という前提に立ってコミュニケーションすることが必要だし重要なのです。 これは私自身、カリフォルニアで合計11年暮らす中で何度も実感したことなのですが、今回このピダハンの話を聞くにつけ、日本人とアメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、ロシア人、中国人、韓国人、インド人・・・の違いくらいでいちいち驚いたり、時にムカついたりすることがいかに無知・未熟—すなわちナイーブ(=ものを知らない)—かに、あらためて気づかされました。 この話を、ある企業の、最近インドビジネスの責任者となって活躍している友人と話したのですが、「まさにそれを実感し続ける毎日ですよ!」と言っていました。 企業で海外展開やグローバル事業展開の最前線に立つ人たちには是非、「(暗黙の前提における)想定外は想定内!」という、強く&楽天的な取り組みで乗り切って頂きたいと願うものです。。。その方々には、是非、このブログ記事への感想・コメントをお寄せください。楽しみにしています!
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