少し前ですが、アメリカ時代に一緒に仕事をしたことがある20年来の友人で、現在もシリコンバレー在住のAさんと、久しぶりに東京で会って呑んだ時の話です。 その時Aさんと意気投合したのは、「アメリカ企業すごい!、それに比べて日本は。。。」という風潮がいまだに日本に多いが、実際に住んだ実体験の肌感覚的には、「それって、そんなに単純には言えないんじゃないの?。。。」と思うことが結構ある、ということです。 「日本ダメだ!」を言って、それをビジネスとして生活している人達は仕方ないまでも、結構世の中に影響力のある経営者もそれを言いすぎているのではないか。それが心ある・やる気と能力のある、しかしそれほど自分に自信のもてない多くの平均的日本のビジネスマンの元気をなくさせているのではないか、という問題意識です。 先日もあるビジネス誌で、著名な経営者と経営学者が対談していて、「日本ダメだ!、アメリカ凄い!」的なことを言っていましたが、その経営者とて、実際に日常的にアメリカの経営者やビジネスマンと接しているわけでなく、もともと持っていた、経営学者らから得た知識を、ビジネスで接するアメリカの経営者らと何度か話す中で、それが裏打ちされたと感じて、日本に戻ってきて話をしているのではないか。。。 だれでも一日の時間は24時間で、複数の人生を同時に送ることはできない以上、少ない経験にもとづいてあまりに断定的に「アメリカ凄い!」とか「だから日本はダメだ!」と発言するのは言い過ぎではないか、それが社会に悪影響を及ぼしているのではないか。 我々二人のシリコンバレー在住期間を合わせれば、計30年は超えるので、その間に体験した話を日本の人達に伝えて、「無駄に自信を失う必要は無いですよ!」という本でも出してみたら、世の中に貢献できるのではないか。。。などと酒を呑みつつ大いに盛り上がった次第です。 その時出てきた、実体験的「アメリカだって、そんなに凄くも立派でもないこともあるじゃん?!」の例を一つ挙げてみます。 ☆ある著名な大手アメリカ企業の役員に、Aさんが「我々の提唱するマネジメント手法を組織全体として根付かせていくことが、御社の今後の持続的発展にとって大変有効と考えるので、ぜひ一緒にそれを推し進めて行きましょう!」と提案した時のこと: その役員の返答:「あなたの推奨する方法論や考え方は非常に重要だし、役立つ。だからこそ私は、あなたのサポートのもと、それを学んで実践してきたし今後も続けるつもりだ。しかし、この業界の常として、競合他社に転じることが多いし、私にもその可能性は大いにある。仮にそうなった時、もしこの会社全体にこの方法論を組織的に根付かせていたなら、結局自分は、競合企業の力を底上げしてしまっていたことになる。だから残念ながら私はあなたの提案には乗れないんだ。。。」 ⇒Aさん:「。。。」 如何ですか? あまり美しくも立派でもないことが、アメリカの、しかもそこそこ以上に世の中的には尊敬されている企業のビジネスマンにおいても起こっている、という例です。 この事例を挙げたのは、決して「アメリカ企業・ビジネスマンの考え方や行動が美しくない」と言いたいがためではありません。 どんな企業も経営者・ビジネスマンも、完璧に美しかったり立派ではありえない、という極々当然のリアリティをお伝えしたかったのです。 要は、一方的に何か—国でも企業でもビジネスマンでも—を完全に美化したり、逆に完全なダメ・悪として扱うような、「日本ダメだ! & 〇〇凄い!」論的なとらえ方はやめた方がいい、ということです。 その意味で、念のため今度は、日本企業・ビジネスマンの、あまり美しくない事例を挙げてみましょう。 ☆私が十年ほど前に、ディシジョンラボでお手伝いしていたある日本企業でのこと: 最終発表会の日程が、社長のスケジュールの都合から何回もリスケジューリングされた挙句、最初の予定より3週間前倒しで行われることになり、受講生の人達は、必死の思いと努力で直近はほとんど徹夜で検討に取り組み、発表会に臨みました。 ところが、会が始まって10分もしないうちに、社長が突然席を立って全く無言のまま出て行ってしまったのです。 この社長は非常に実績のある有名なカリスマ経営者で、当時の有力政治家のブレインも務めていた人なのですが、後から聞いたところでは、急にこの政治家からの呼び出しを受けて、そちらに行くために席を立ったのだそうです。 この社長は常々社内外に「企業のよって立つところは人材であり、人を大切にすることこそがわが社の理念であり、自分は長年それを一貫して率先垂範してきた」と言っている人で、私としてはまさに「えっ、嘘でしょ?!」という感じでした。 真に「人を大切にする」のなら、せめて「誠に申し訳ないが、のっぴきならない事情で、いま席を立たざるをえなくなった。私は君たちの最終発表を聞くことはできなくなってしまったが、今日これからの発表と他の経営陣とのディスカッションが充実したものになることを願っている。大いに期待しているので、ぜひよろしくたのむ!」くらいのことは言ってほしいと感じました。 要は、洋の東西を問わず、常に完璧に美しく立派な企業や人はいない、だから何にしても、あまりに美化したり逆に貶めて語るのは大いなる誤解を招く、ということです。 むしろ、私の実体験的な感触では、非常に能力が高く実績のある人ほど、その逆の落差も大きいのではないかと思います。 つまり、プラス面が大きい人は、マイナス面もそれに比例して大きい、そしてプラスとマイナスを足し合わせると、結局、一人の人間のトータルのキャパシティ・能力は、どんな人でもそれほど大きく違わないのではないか。 これを私は「人間能力保存説」と呼んでいるのですが、これにもとづけば、どんなに素晴らしい実績を示している企業でも経営者でも、一方的に美化されるほど凄くはなく、したがって、それと比して自分や自社が劣っている、と悲観したり卑下する必要はない。単にそうした素晴らしい企業や経営者の大きなプラス部分から学んで自分や自社の改善のヒントとして使えばいい、というだけのことなのです。 そしてもう一言加えると、組織としては、プラスとマイナスの振幅がさほど大きくない凡人がそれぞれ異なるプラス部分を持ち寄って、マイナス部分が表に出なくて済むような協働ができるようにしていくことが、組織や企業の持続的な発展に役立つのではないか、これが、ディシジョンマネジメントの衆知の結集の考え方にもつながるわけです。 プラスの振れが非常に大きい一人のカリスマ経営者に、その他の人全てがついて行く組織は、成長しているとき、順調な時には非常にうまく行くのですが、その間にマイナス部分も大きく膨れ上がり、組織としての健全性・持続性が失われていく危険性が大きいのではないかと思うのです。 素晴らしい実績を残したカリスマ経営者が晩節をけがしたり、国家においてカリスマ的リーダーがいつの間にか独裁者に変質するのも、このあたりに起因しているのではないかと考えたりします。 もう一言付け加えると、企業においては、志ある凡人の衆知の結集で、そこそこの経営実績を達成し持続的に向上させて行くことができれば、「衣食足りて礼節を知る」という言葉のごとく、マイナス部分が表に出るのをミニマムにすることができます。プラス・マイナスの振幅の大きい天才の場合、好業績の見返りで手に入る、そこそこの権力・権威・金銭的処遇などでは満足することができないほど、マイナス面の自我・欲望の大きさが巨大なように見受けられます。 それに比べれば凡人のマイナス面の振れ幅はずっと小さいので、衆知の結集による持続的好業績から得られるそこそこの見返りがあれば、十分に「衣食足りる」ので、「礼節を知り、マイナス面を抑制することができる」と、私の個人的願望も含めて、思います。 以上、20年来の友人との呑み話から、またいつものディシジョンマネジメントの衆知の結集の話になってしまいましたが、多少でもこのブログを読んで楽しんで頂き、また何かの役に立てて頂ければと願っています。 P.S. 今回のブログでは、「天才 vs 凡人」の対比を極端に書いてしまったきらいがありますが、私の本意は、決して天才を排除することではありません。単に、「天才に頼りすぎる」危険性を指摘したかっただけです。 それどころか、「よき凡人」の衆知の結集の基本土台があって、その土台の上で天才の大いなるプラス部分を発揮してもらい、チームなり組織として活用することができれば、最強のチーム・組織・企業を作り上げることが出来ると信じています。
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