通常は、良くないこととされている何かから「逃げる」ことと、良いこととされている「本当にやりたいことをやる」が実はつながっていることに、あらためて気づかされました。きっかけとなった2つの記事からの抜すいとともに論じてみたいと思います。(「⇒」以下に私のコメントを記していきます。)1⃣[仕事嫌でデンソー退職、農園経営者に 「逃げる勇気」持とう、必ず成長する](日経ビジネス誌2025年9月8日号の「有訓無訓」というコラム記事での、ブルーベリーファームおかざき代表取締役 畔柳茂樹氏の言葉より)今の仕事が本当に嫌なのなら、会社を辞めればいいと私は思います。自分が掲げた目標に向かうステップの一つとして、今は嫌な仕事に耐えているというのなら話は違いますが、そうでないなら会社から逃げましょう。私は逃げました。かつてデンソーに勤めていた私は、40歳で課長に昇進したことをきっかけに、多忙を極めるようになりました。土日をつぶさないとこなせないような量の仕事が降りかかり、頭がおかしくなりそうでした。…私たちは子どものころから、学校の先生や親から「逃げてはならない」と教え込まれています。「そんなに簡単に逃げたら、何も成し遂げられないよ」「今、逃げるのはひきょうだよ」「周囲に迷惑がかかるよ」などと、様々な場面で刷り込まれてきました。…だけれども、本当に嫌だったら逃げた方がよいです。そうしないと、心が病み、「このまま仕事に耐え続けるか、自ら命を絶つか」という心境に陥る危険もあります。…デンソーから逃げた私は、農業学校で学び直し、2008年に故郷の愛知県岡崎市でブルーベリー狩りができる観光農園「ブルーベリーファームおかざき」を開業しました。…自然の中でのブルーベリー栽培はとても面白く、毎朝農園に通うのが楽しくて仕方がありません。デンソー時代のように、仕事をやらされている感覚はなく、活力がみなぎっています。…もちろん嫌な仕事から逃げ、自分が心からやりたいことを仕事にしても、成功は約束されていません。しかし成長は約束されています。失敗することで気分は落ち込むかもしれませんが、同時に得られる学びがすごく大きい。それを糧に成長できるのです。そう捉えることができれば、また必ず浮上します。⇒抜すいする記事では、ほとんどの場合、そうですが、「なるほどなあ」と思いました。畔柳氏のおっしゃるように、「逃げる」をネガティブにとらえるよう、私たちは教育されてきていますが、人類史の初期、狩猟採集時代においては、強い攻撃力・守備力を持たない人類にとっては、他の獰猛な動物たちから身を守る手段として極めて重要かつ有効な戦略だったわけです。その後、「その場で頑張り続ける」ことが有効な農耕時代となり、共同体の中での役割を果たすことが重要となったことで、「逃げてはならない」が重要かつ有用な心構えとなり戦略となってきたのだと思います。しかし、「逃げてはならない」心構えで適応しようとしても、どうしても耐えられなくなったら、そこで病むまで/ 死んでしまうまで頑張るよりは、最初の戦略である「逃げる」に立ちもどった方がずっと良い、ということで、その通りだと感じました。以前のブログで取りあげた江戸中期の船頭・北前貿易商人の高田屋嘉兵衛も、生まれ故郷の淡路島では、まわりから嫌われつまはじきされ、命の危険さえあるほどいじめられていたのが、「そこから逃げて」兵庫の港に移り住み、そこでは能力と人柄を大いに認められ愛され、船頭・商人・事業家として尊敬され大成功したのです。あらためて「逃げる勇気」の重要性に思いをいたす次第です。そう考えて、私のこれまでの職業人生を振り返ってみると、その時々の転職の決断において、これまではそういう発想では取り組んでこなかったつもりだったのですが、もしかすると「逃げる」という要素もあったのかと感じます。私の場合は、その場で与えられた職場・仕事環境で必死に頑張るなかで、色々と「ムカつく」というか「やってらんない」感や「成長できる感が感じられない」がこうじてきて、そうすると「次に何をやりたい」がはっきり浮んでくる、という形でポジティブに取り組んできたつもりだったのですが、よく考えると、その裏に「逃げたい」という動機のエネルギーがあったのかもしれないと思います。ただ、子供の頃から言い聞かされてきた「今、逃げるのはひきょうだ」があるので、自分としては「逃げる」という発想動機を封印というか見ないようにしてきたのかもしれません。畔柳氏の言葉の中で、もう一つ「なるほど、そうだよな」と思ったのは、「嫌な仕事から逃げ、自分が心からやりたいことを仕事にしても、成功は約束されていません。しかし成長は約束されています」です。「成功は約束されていないが、成長は約束されている」は、イノベーションに取り組む際にも、そのままあてはまる考えだと思います。革新的な試み(技術開発や新規事業への取り組み)の提案に対して、多くの企業では、「本当に成功するのか?失敗したらどうするのか?」とケチをつける人が必ず出てきます。そうした議論が、成功の確率を高めるための改善を行う目的で行われるのなら良いのですが、「成功しないかもしれない、だからリスクを考えて、やめておこう」という側の発想で行われるケースが圧倒的に多いと感じています。「成功は約束されていないが、成長は約束されている。その状況の中で、得られるであろう学びを捨ててNoGoの決断をするのが本当に良いのか?」という発想で、イノベーションテーマの提案についてディスカッション・共創をすることが大事だと、あらためて感じる次第です。2⃣[インディーゲーム、膨らむ夢と市場 大手が忘れた独創性 異業種から参入相次ぐ(日経ビジネス誌 2025年9月15日号の「第2特集」より)彼は大学4年生になると、周りの同級生らに倣ってリクルートスーツに身を包み、就職活動に乗り出した。だが会社説明会に出席しても、自分だけ場違いに思えた。採用面接で口にした志望動機も、心がこもらない。就活開始からわずか1カ月で、彼は「会社に勤めるのは自分の本意ではない」と悟った。本当にやりたいことをして生きていこう。そう決意すると、彼はエントリーシートを脇に置き、ゲームの作り方を独力で学び始めた。半年後、同級生らが次々と就職先を決める中、彼は1作目のゲームをスマートフォン向けに公開した。続けて卒業間近に改良版を公開したところ、それなりに売れて40万円が転がり込んできた。大卒の一般的な初任給よりも多い金額を稼いだことに自信をつけ、彼は「ところにょり」の名前で活動する、フリーのゲームデベロッパーになった。ゲームの企画・設計・開発をたった1人で手掛けるソロデベロッパーだ。それから10年近くがたち、今やところにょり氏はヒットメーカーである。…ただところにょり氏は無欲だ。「誰も見たことがないようなゲームを作って、『僕が世界で最初に思いついた』と言いたい。ただそれだけだ」、と語る。…大手ゲーム会社が手掛ける大作のゲームでは、飽き足りないゲーマーなどが、インディーゲームのファンになっている。巨費を投じて開発した大作を、大量に売って、投資を回収するのが大手ゲーム会社のビジネスモデルだ。…「AAA(トリプルエー)タイトル」と呼ばれる超大作になると、開発に数十億~数百億円もの資金と、数百~数千人の人員が投じられる。…AAAタイトルの損益分岐点は一般的に数百万本、AAタイトルは数十万本というように、大量に売らないと黒字化しない。…誰も体験したことがない実験的なゲームに多額を投じるような、イチかバチかのリスクはなかなか取らない。結果的に大手ゲーム会社の作品は、新味に乏しい内容になりやすい。…ソロデベロッパーなら、開発コストは基本的に自分がパソコンに向かっている時間と労力しかない。誰からも投資回収のプレッシャーを受けることなく、自分が作りたいゲームを作れる。…ところにょり氏のアドベンチャーゲーム「違う冬のぼくら」も独創的な内容だ。⇒先ほどの記事の「逃げる勇気」の文脈で考えると、ところにょり氏の「就活撤退」も、それなりに頑張って臨んだ就職活動に場違い感を感じてそこから「逃げ」、「本当にやりたい」と思ったゲーム作りに取り組んだストーリーと見ることができると思います。その時点ではゲームデベロッパ―としての成功はもちろん約束されていなかったわけですが、「誰も見たことがないようなゲームを作りたい」一心で取り組んできたわけです。こうなるともう、「成功は約束されてないけど、成長は約束されてる」から取り組む、を越えて、「やりたいからやる」でいいじゃないか!とすら感じます。そういう取り組みのところにょり氏のビジネスモデルと比べると、大手ゲーム会社のビジネスモデルである「巨費を投じて開発した大作を大量に売って投資を回収する」では、「誰も体験したことがない実験的なゲームに多額を投じるようなイチかバチかのリスクはなかなかとらない。結果的に大手ゲーム会社の作品は、新味に乏しい内容になりやすい」となってしまう訳です。これを読んでいて思ったのは、「投資を回収して儲けなければならない」というビジネスモデルの中で、そこに従事するゲームデベロッパ―の人達のかなりの部分は、前出のデンソーで働いていた頃の畔柳氏と同じ「逃げたい」感にさいなまれているのではないか、ということです。私個人としては、「多額投資、儲かる確率の高い商品開発、大量販売、大きな儲け」モデルでも、「小額投資、やりたい・好きなことをやって、儲けは(大きいにこしたことはないが)それほど気にしない」モデルでも、そこに従事する人達が、それぞれHappyならどちらでも良いと思います。ただ、私の日本とアメリカで暮らした個人的体験からすると、アメリカ人には「大儲け」志向の人が多く、日本人には「一応食っていければ、儲けはそこまで気にしない」人が多いように、極めて雑ぱくな見方で恐縮ですが、感じます。もしこの見方が当たっているとすると、話は一気に飛躍しますが、日本人には「ベーシックインカム」の多くの制度が向いているのではないかと思います。「本当にやりたいこと」があっても、それで「そこそこ食っていけるだろうか」の不安故に、リスクが大きいことには積極的になれず、「つらくても逃げられなくて我慢を続けている」普通の日本の人達にとっては、「一応そこそこ食っていける」レベルのベーシックインカムがあれば、皆もっともっと「本当にやりたいこと」に取り組めるのではないか?そうすれば、小粒でも多種多様な取り組み、製品、サービス、事業が立ち上がってきて、世の中がもっともっと楽しく活性化するのではないか?という発想です。その中に大きく「バズる」ものが出てくれば、More than Happyですが、そこにこだわる必要はないのではないか?アメリカ人と接していると、かなり高度な理想の話をしていても、必ずほとんど無意識のうちに、「どうやってもっと儲けられるか」を考える人が多いように感じ、その度合と割合は日本人よりずっと大きいと感じました。ベーシックインカムの話をすると、必ず「そんなことをしたら何も働かずにサボる人が続出するだけだ」という人がいます。しかし「そこそこ食っていける程度」のベーシックインカムでは物足りず、「もう少し稼いで、楽しいことをもっとやりたい、時にはちょっとぜいたくもしたい」と、大多数の人は思い、だから働くのではないか。ごく一部の「サボり人」への懸念から、ベーシックインカムのコンセプトを採用しないのはもったいないのではないかと思います。常に性善説で考えがちな私の「甘すぎる妄想」かもしれませんが、一考には値するのではと思い、思い切って書いてみました。以上、話がドリフト気味になりましたが、読者の方々への知的刺激になれば幸いです。
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