先日、長年一緒に仕事をさせて頂いているクライアントかつ(僭越ながら)友人との会話で、会社人生ひいては人生そのものに、「余生」などというものを持たない生き方をしたいよね、という話で盛り上がりました。 この方は(Aさん、としておきます)、ある大手企業グループの関連会社の本部長職の方で、もともとは本体に在籍していたのですが、10年ほど前に関連会社に移籍し、現在に至るまで熱く活躍しておられます。 Aさんとは移籍直後に知り合い、その後仕事でご一緒する機会が多いのですが、一貫して、自分の今の所属企業やひいては本体も含む企業グループの業績向上、またそこに働く人たちのスキルアップや充実感向上に心を砕き、活動されている、非常に「熱い」方です。 つい先日そのAさんにお会いした時の、悲憤慷慨の言葉の概略抜粋です。: 【当社グループは業界最大手の企業で、こうした会社の通例で、本体の経営をリードした人たちが関連会社の経営陣に異動することが多い。 従って本体の経営陣から見れば、かつて自分が指導を受けた先輩たちが関連会社の経営をリードするという人間関係となっている。 こうした状況で時々出現する始末の悪い人とは。。。最も始末が悪いのは、関連会社を「終の棲家」と考える人たちであり、「老後の生活の場」と考える人たちである。 このような人達は、若いときには良い仕事をしたはずなのだが、新しいことに取り組む姿勢が弱くなり、最悪の場合には経営状況が思わしくないと何かと本体にもたれこむ姿勢すら見せることがある。たとえば・・・・・ ・・・・・また、こうした行動・態度は、関連会社のプロパーの人たちに対する著しいモティベーション低下にもつながっている・・・・・】 Aさんの悲憤に私も全く同感でした。考えてみれば、中央官僚の独立行政法人等への天下りも全く同じ構造で、その意味では、昨今の官僚天下りを民間の人たちは「官僚独自の見下げた行為」として批判しているのですが、民間の方も「全く無罪」とは決して言えないのだなと改めて感じた次第です。 少し飛躍しますが、この例に限らず、人は「自分はこれからは余生だ」と思ったとたんに堕落し始めるのではないかと思います。「余生だ」の裏には「逃げ切った」という安堵感があるわけで、それは「まだまだジタバタもがき、頑張りつづけないと生きていけない」状況にある人たちにとっては、「いいご身分だ」という反感を呼ぶわけです。ましてそれが同じ職場の人であれば、余計に不愉快であるのは当然です。 さらに言えば、「余生」モードになった人たち自身、それで楽しいんだろうか、という疑問もわきます。せいぜい1~2年なら「余生」の満喫も良いかもしれませんが、それ以上になると飽きてしまうのではないかと—他人事ながら—思います。 私は決して「生涯仕事を続けていないと生きる意味がない」などと言っているわけではありません。趣味であれボランティアであれ、何かに打ち込んで、できれば誰かの役に立ちたい、という姿勢の方が人は幸せであり、またまわりの人たちにとっても好ましい人物でいることができるのではないか、と思うのです。 その意味で少し極論的言い方になりますが、「余生のない人生」こそが目指す生き方だと思った次第です。
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