多様性/ ダイバーシティについての議論が近年多くなされています。人種/ 性別/ 年齢/ 性格等々、それぞれの切口でのマイノリティや非主流派など、それまで冷遇されていた人達の権利擁護という観点での議論です。ただ、冷遇されていた人達の権利主張の議論が白熱化してくると、マジョリティ側の人達の間に「言ってることは理解できるし、これまでマジョリティ/ 主流派として権利を享受しながら、マイノリティの人達の苦しみを見て見ぬふりをしてきたことは申し訳ないと思う。しかし、そこまで言われちゃうと…ちょっと主張が強すぎて、ついていけない。鼻白む感じがする。もちろん、そんなことは表立って言えないし言うつもりもないけど…」というモヤモヤした感情が蓄積している空気も感じられます。そんな中で私は、「多様性」を[マジョリティに対するマイノリティ/ 非主流派からの「異議申し立て」「権利主張」「権利擁護」「権利保護」]の段階から、もう一段進んだ、成熟した概念/ とらえ方にして行けないものか、という感覚をもっていました。この課題認識に触れてくる3つの記事/ 動画情報を通じて、「究極の多様性活用社会」という妄想が浮かんできたので、思考実験の記録としてブログ記事にしてみました。まずは1つ目の記事引用です。(「⇒」以降に私のコメントを記して行きます。)1⃣[認知症の人が店員、常設の食堂 働く喜び社会の選択肢に(2024年7月22日 日本経済新聞朝刊の「風紋」というコラム記事より)]愛知県岡崎市に認知症の人たちが日常的に働く食堂がある。仕事に手間取ることもあるが、働ける喜びは大きい。「働くという選択肢があることが大事」と、関係者は訴える。「ノリ子さん、お水が入ってないよ」。岡崎市の住宅街にある「ちばる食堂」。店主で介護福祉士の市川貴章さん(43)が、配膳担当の池田ノリ子さん(78)に声をかけた。3つのお冷やのうち、1つのグラスが空のまま。しまった、とノリ子さんはすぐに水をつぎ足した。…ノリ子さんは認知症を抱える。同じことを繰り返したり、目の前のものをすぐに把握できなかったり。それでも働く意欲は人に負けないつもりだ。「自分でお店をやっていたこともある。働けるうちは働きたい」とやりがいを語る。認知症の人が飲食店で働く試みは、2010年代後半から各地で広がりをみせている。注文などでミスが起きることを前提に、認知症への理解促進を目指す取り組みだ。月1回や期間限定など、常設でない形で展開する例が目立つ。市川さんが食堂を開いたのは5年前。目をひくのが常設の店舗としたことだ。介護福祉士として施設で長く働いた市川さんは、認知症の人にできることは少なくないと感じていた。…調理や会計は市川さんが担い、ホール業務をノリ子さんらに任せる。もちろん手間取ることは多い。危なっかしいときは、市川さんが予防的に声をかけて行動を修正する。福祉の専門家としての”プロ”の目配りがキモといえる。⇒高齢化社会に伴って増えてきている認知症の人達を、単に「気の毒な人。まわりの人達に負担をかけるが、社会としてお世話をしないといけない人」と見るのでなく、「認知症の人にできることは少なくない」ととらえ、「働けるうちは働きたい」意欲を生かしてもらうことは、社会にとって非常に意義あることと感じました。ちょっと発想が飛躍するかもしれませんが、かつての非主流として「生まれた子が女の子で残念」とか「白人に生まれなくて残念」といった発想を「女性ならではの能力/ 物ごとのとらえ方は貴重」とか「黒人・黄色人種ならではの文化や発想が有効」といったポジティブな見方をするようになったのと同様、「認知症は人生を長く経験することに伴って出てくる1つの個性。その個性を認識しつつ生かす為の工夫をしていけば、社会に十分貢献できる。認知症というマイノリティ特性の視点をもつようになったおかげで、他のマイノリティ的個性への共感を、より豊富にもてるようになった、感受性豊かな人達」ととらえられるようになったら素晴らしいと感じました。(私自身、年齢から言って、今や認知症は他人事ではないので、余計にそう感じるのかもしれません。)2つ目の記事は別の面でのマイノリティの方に関するものです。2⃣[ひだりポケットの三日月 三上大進氏 「パラ」で見つめた人との違い(2024年8月24日付 日本経済新聞朝刊の「あとがきのあと」というコラム記事より)]パラリンピックをきっかけに「自分と人との違いに目を向けられるようになった」。平昌、東京の2大会でNHKのリポーターを務めた経験を核に障害との向き合い方の変化をつづった。生まれつき左手の指が2本。「皆と一緒がいい」思いから「左手をポケットに隠せば普通になれる気がした」。…平昌大会を前に、障害のあるリポーターを募集していたNHKのオーディションに合格。「左手を直視できなかった」自分が変わっていったと語る。パラ選手と交流し「ない3本の指を求めるより、今ある2本の指でできることを考えるようになった」。…化粧品会社での勤務経験もあり、現在は自ら設立したスキンケアブランドを運営する。離れて見えるパラスポーツと美容だが「足りないものを悲しむより、残っているものをいたわる点で通じる。パラ選手は自分の体を知り尽くして最大限に生かす。美容も、与えられたもので自分をより美しく見せること」。⇒1⃣は「認知症」という後天的/ 経年変化によるマイノリティ個性についてでしたが、この方の場合は、「手の指が5本」というマジョリティに対する「手の指が2本」という先天的マイノリティで、より深刻な状況からのスタートだったわけです。そこから様々な経験を積み、かつご本人の前向きな姿勢から、「足りないものを悲しむより、残っているものをいたわる」という境地に達した訳です。通常の多様性でとりあげられる人種/ 性別、さらには認知症よりもずっとレアなマイノリティで、本当に大変だったでしょうし、また、それだけ立派だったと思ったのですが、ここで妄想的に思ったのが「すべての人は、何らかの切り口では必ずマイノリティ。だからマイノリティであることを欠点ととらえる考え方から解放され、それを1つの個性として皆が認めあい、その意味での様々な個性を互いに活かし協力し合って行ける社会になったら、どんなに素晴らしいか!」ということです。そんなことを思っていた時、YouTube動画で、非常に興味深い会社があることを知りました。3⃣[発達障害者ONLYの職場で能力全開で働く人たちのこと(岡田斗司夫氏のYouTube動画)]この人の動画は過激なところがあり、時としてついて行けないのですが、発想がユニークなので、時々見ています。この動画で触れられた職場(ある新聞社の一つの部門とのことでした)では、全員が発達障害者(ADHD)で、●それぞれが、そのADHDの裏腹にもっている非常に優れた能力を発揮している●各人の特色(吃音/ 貧乏ゆすり/ 片付けられない/ 異常なこだわりの強さ/ 収集癖/ 謎の儀式/ くせ etc.etc.)を明文化し全員で共有し、相互に補い合う●共通認識された各自の特徴を馬鹿にしたりは全くしないが、はっきり言葉に出してサポートする:例えば「机、片付けない、ADHD!」とか「出かけるぞ。落ちつけチック!(緊張すると顔がピクピクする人への声がけ)」といった具合に●ADHDの特徴で他人に興味がないので、人の悪口も言わないし、イジメもない。仕事に必要な会話だけがなされる。⇒この動画を見ていて思ったのが、「究極の多様性活用社会」と「各人の取扱い説明書公開・共有」という妄想的アイデアです。先程も書いたように、様々な切り口でとらえると、どんな人でも、何らかの観点ではマイノリティなのです。たとえば、1つの切り口で、20%以内の数の人をマイノリティとすると、その切り口のマジョリティの割合は0.8ということになります。その前提で、10個の切り口すべてでマジョリティという人は、0.8の10乗=0.107、つまり10%程度となり少数派になるわけです。切り口の数を50にすれば、0.8の50乗=0.0000143、つまり、ほとんどゼロとなります。この職場で明文化されたレベルのものまで合わせれば、世の中の人間の個性の切り口の数は、100や1000ではおさまらないはずなので、「すべての人は何かしらの切り口では必ずマイノリティである」と言って差しつかえないわけです。であれば、それぞれの人のマイノリティ部分で特別扱いしたり、ましてや差別したりするのは、完全にナンセンスです。そうしたマイノリティの人達の集合である社会で、各人が平和共存するには、この職場のようにそれぞれのマイノリティ特性を明文化し互いに共有し、相互に助け合うようにするのが最も生産的であり、社会全体の幸せ度を高めることに有効、ということになります。そこで、1つのアイデアというか提案ですが、各自が自分のマイノリティ特性を、通常ポジティブとされるものと、ネガティブとされるものを最低5つリストアップし、それらを(長所的なものは)どう活かしたいか、(短所的なものは)どう補完して欲しいかを説明したものを「私の取扱い説明書」として公開するシステムです。(加えて、本人が自覚していないマイノリティ特性が往々にしてあるので、近しい友人・知人につけ加えてもらうと、さらに良いと思います。)これがあれば、たとえば入社の採用面接の際に共有することで、より適切な採用マッチングができるようになります。「取扱い説明書」を社会全体で完全公開するのは、プライバシー保護の観点で問題がありそうですが、ある程度以上の公共性があり、権力が生じるポジションにつく人については、「人間能力保存則」の観点から、「取扱い説明書公開」を義務づけても良いような気がします。「人間能力保存則」というのは私が勝手に唱えている考えですが、「人間どの人も、トータルの能力はほぼ一定。一面で突出した能力を持つ人は、別の面で往々にして何らかの大きな欠陥をもっている」という経験則です。たとえば、「理系的な能力が突出しているが、文系的素養に欠ける」とか「秀れた事業戦略を立案し実行する能力に長けているが、人間として親しくつき合うには個性が強すぎて感じが悪い」といったものです。最近話題になった某県の県知事がいますが、知事の権限を悪用して「おねだり」をしたり、部下に高圧的な態度を取るパワハラで訴えられています。県知事になるくらいの人物ですから、政治家として・行政職としてはかなり高い能力をもっていたのでしょうが、その一方で持っていた「おねだり体質」「パワハラ体質」「激高体質」という社会的には望ましからざる「マイノリティ」部分が災いした典型的事例だと感じます。もし、県知事に立候補するには「取扱い説明書」を提示・公開すべし、という制度があったとしたら、この人の取扱い説明書には「私には、調子に乗ると「おねだり」したり、部下やまわりの人に「パワハラ」的発言をするマイノリティ部分があります。また、感情的に激してくると大声でどなったり、物を投げつけたりする傾向があります。通常の生活の中では、これらを理性で抑えていますが、時に逸脱してしまうことがあります。知事に当選した際には、これらマイノリティ部分が知事としての仕事に支障をきたさないよう自分でも十分注意するようにしますが、悪い部分が表面化しないよう、ぜひそうした面での体制・工夫についてのサポートもお願いします。」とするのはどうでしょうか?最近耳にした別のケースとしては、熱血指導で秀れた成果を上げた教師が、時としてパワハラ・セクハラを行なったことが明るみに出たことで、教職から追われ、その指導の賜物で成果を上げ、感謝している生徒達も残念に思っている、というのもありました。明治の元勲といわれる人達のことを書いた小説などを読むと、彼らが秀れた能力と志で、明治維新に大きく貢献した一方、職権乱用、パワハラ・セクハラ体質だったことが描かれています。今のようなコンプライアンス重視の世界では、彼らは「職権乱用」「経費の使い込み」「パワハラ」「セクハラ」というマイノリティ特性故に、社会的に追放され、結果として優れた能力を発揮できずに終わったことでしょう。その意味で、「取扱い説明書公開制度」は何らかの(通常の意味での悪い)マイノリティ特性をもつ人達が裏腹にもっている(通常の意味での良い)マイノリティ特性能力を、社会の為に十分発揮してもらうのに役立つのではないかと考える次第です。具体的対象としては、公職につく人、民間の企業・組織でも一定以上の権限・権力を持つ人達に適用したらよいと思います。色々、話が逸脱・飛躍・発展して、個人の「取扱い説明書公開制度」という究極の妄想にたどりついてしまいました。「究極の多様性活用社会」実現に向けての、一つの思考実験として何らかの知的刺激として楽しんで頂ければ幸いです。
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