最近、「機械との競争」という本や、プロ棋士がコンピューターソフトに敗北、といった記事を目にします。その中で、つい先日の日経新聞の経済教室に「コンピューターが仕事を奪う(上) 人材教育の高度化カギに」(国立情報学研究所教授 新井紀子氏)という論説が出ていました。 主旨としては(私の解釈も若干入っていますが)、ざっと以下の感じです。 〇人間から学習してコンピューターは進化し、「そこそこ知的な作業」は人間から代替が進む 〇ただし、機械で代替できない「高度人材」は存続する。。。たとえば、データアナリスト。どのデータを取るべきか、どのデータは何に活用できるかを見抜く洞察力と、あまたある数理的手法(機械学習・シミュレーションなど)の中から適切なものを選び出し、それをプログラムとして実現した上で、分析結果を人間がわかるように要約する能力は、—–少なくとも相当の期間、当面は—-人間がやる必要があり、そこに人間が働く価値がある 〇問題は、20世紀までの教育は、プログラム化可能な知識技能を人間に身につけさせることで成功したが、それらは機械にも学習しやすいのであり、機械の学習能力が格段に上がった21世紀においては、もはや有効性を失いつつある。 〇「そこそこ」知的なコンピューターの出現は、近代教育の意義を根底から揺さぶっている。 最後に著者は明るい解決方向を示さないまま、問題提起で論を終えていますが、解決方向は、著者が途中で述べている次のくだりだと思います。 〇機械学習の特徴は、コンピューターはなぜその判断が正しいかの根拠を知る必要がないという点にある。過去に下された「正しい判断」を模倣すればよいのだから。 ⇒つまり、人間は機械と違って、外なり上から与えられた「正しい判断」なるものに対し、つねに「内なる好奇心・探究心」に背中を押されて、「何故それが正しいのか? 本当に正しいと言えるんだろうか?」と問いかけ、考えずにはいられない存在なのです。 さらにいえば、「正しい判断」云々の前に、そもそも「何について」という問いかけや、「何がしたい」という欲求・願望自体が、「内なる好奇心・探究心」の賜物であり、そうしたものを機械・コンピューターが持つはずがないからです。 (サイエンスフィクション的には、そういう能力や欲求をもった機械・コンピューターを作ることも可能かもしれません。しかし、そんなもの—ドラえもんみたいなものかもしれませんね—を作って誰が喜ぶのか、また喜ぶ主体たる人間—のび太君?—がいたとしても、開発と製造のコストを考えたときに、少なくとも当面は、需要との関係で投資対効果的に見合わないでしょうから、これ以上考えなくても良いかと思います。) 従って、内なる好奇心を持ち続け探究し続ける限り、人間は、人間にとっては繰り返していると飽きがくるような「そこそこ知的な作業」を、飽きずに文句を言わずにやってくれるコンピューターや機械を駆使する「主役」でいられるのです。 なので、21世紀に必要な教育は、内なる好奇心を刺激しそれを育て、何をしたいか、何が正しいかを探究し続ける姿勢と、それを実行する中で、「そこそこ知的な作業」をこなすコンピューターや機械を使いこなすだけの基礎素養を身につけさせることだと思います。 この方向性さえ見えていれば、あとはそれなりの教育専門家の人たちが知恵を集めれば、あらたな21世紀versionの高度教育人材育成体系はおのずと作り上げられるのではないかと思います。 (もしこのコラムの著者の新井さんが、「その方向性は見えているけど、実際にどうするかの正解がまだ見えていない」という主旨だとすれば、答えは「試行錯誤、いろいろやること。多分、20世紀のやり方だって、最初は試行錯誤から始まったのだから、それしかないと思い定めて根性を入れて取り組み、そこから学んでいくしかないし、それでいいんだ!」ということになります。) 。。。というようなことを考えつつ新井さんの記事を読んでいたら、偶然そのすぐ下にあった経済教室の「地方からのオンリーワン 製品に加え仕組みも差別化を」という記事の、以下の文章が目に留まりました。 〇・・・・・差別化が製品だけならば他社にまねをされるが、人材育成や工程といった会社の仕組みにまで広げれば模倣は困難だ・・・・・ 上の記事に関する私の解釈とつなげると。。。 【内なる好奇心・探究心に満ちた人たちが、何がやりたいか、何故やりたいか、顧客の視点を入れつつ、何が正しく何故そうなのかと問いかけ追求・模索し続け、それを互いの個性を尊重しつつチームとして活動して行けば、そのやり方から生まれる製品やサービスは市場において競争力を持つ。 かつ、競合企業が、こうした企業が世に出した製品・サービスを表面的にまねしようとしても、そもそもその競争力の源泉となる、企業内の内なる仕組みや好奇心・探究心あふれる人材とその人たちの協働の阿吽(あうん)を真似ることは至難である。これからの21世紀型企業は、これを目指すべし!】 ということになります。 若干強引かつ私のディシジョンマネジメントの考え方に我田引水気味かもしれませんが、以上、「コンピューター・機械 対 人間」に関する私の感想・感慨でした。