またまた超久しぶりのブログですが、今回は「理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ」(吉川浩満著)という本を読んで感じたことを書いてみます。 どうしても、ビジネス戦略や意思決定がいつも頭にあるため、今回は生物進化と企業発展を重ね合わせて読んでしまいました。 まずは(少し長いですが)、その文脈・観点から、印象に残った叙述の抜き書きです: ************************************************ ○・・・これまで地球上に出現した生物種のうち、じつに99.8%が絶滅してきた・・・ ○・・・生き物たちがどのように絶滅していったかを調べていくうちに、その多くは劣っていたからというよりも、運が悪かったせいで絶滅したにすぎない・・・ ○・・・端的にいえば、生き物たちは遺伝子がわるかったせいで絶滅したのか? それともただ運がわるかっただけなの? ○・・・理不尽な絶滅は、弾幕の戦場のもとでの運の支配と遺伝子を競う公正なゲームの支配とが組み合わされたシナリオ・・・ ○・・・遺伝子を競うゲームの土俵自体が、運によって入れ替えられてしまうということ、それがこのシナリオの要点・・・ ○・・・恐竜が受けた試練は、指導者から急に競技種目の変更を命じられたスポーツ選手に似ている・・・ ○・・・理不尽な生存・・・そんななかで、珪藻類(単細胞の海洋性プランクトンの一種)は例外的にも無事に切り抜けることができた・・・珪藻は、湧昇流が栄養分をもたらす季節に生長・増殖し、栄養分がなくなる季節には休眠する。この休眠が、暗闇をやりすごすのにたまたま適していたらしいのだ・・・ ○・・・じつは大昔の哺乳類—私たちの遠い祖先—もまた、理不尽な生存者の一員・・・ ○・・・理不尽な絶滅は、生物進化の歴史において重大な役割を担ってきた・・・理不尽な絶滅・・・の跡地こそが、つづく革新的進化のためのステージになる・・・ ○・・・理不尽な絶滅は・・・実績ある優良種を問答無用で退場させてしまう一方で、まさにそのことによって、生き残った生物が革新的進化を遂げる機会を提供したりもする・・・ ○・・・生き延びるべくして生き延びたように見える勝者についても・・・彼らが生き延びたという事実においては一致するが、それぞれ生き延び方の様を異にしている・・・ ○・・・「強いものが生き残るのではなく、適応したものが生き残る」「適応したものとは結果として生き残り子孫を残す者のことである」「適応の度合いは個体が残した(あるいは残すと予想される)子孫の数によってのみ定義される・・・ ○・・・進化論風の言葉でビジネスや社会を語る人びとはみんなどうしてあんなに得々としているのだろうか・・・ドヤ顔・・・うまいこと言ってやった感・・・進化論風の言葉をかぶせたいだけ・・・ ○・・・適者生存(自然淘汰)の原理は自然法則ではない・・・これを法則と考えるのは、前提と結論を取り違えるにも等しい謝りだ。前提と結論を取り違えるとは、「生存した者を適者と呼ぶ」とあらかじめ取り決めてある(前提)のに、何らかの法則(ヴィンセントの「ダーウィンの法則」やグーグル先生の「適者生存の法則」)の結果として「適者が生存した」(結論)と考える謝りだ・・・ ○・・・進化を進歩と同一視するこの思想は、学問の世界ではすでに否定されているが、常識の世界ではいまなおびくともしない堅牢さを誇っている・・・ ○・・・誰もが「ソースはダーウィン」としながら、発展法則にもとづく非ダーウィン的な発展的進化論を好き勝手に開陳・・・ ○・・・ダーウィンの進化論(ダーウィニズム)においては共通の目的など存在しないのだから、進化の過程は偶発的なものになる・・・進化には目的も終点も存在しない以上・・・あるべき理想の状態や未来の姿といったものを予言することも不可能・・・ ○・・・生物進化の道筋はあらかじめ定められたものではなく予見不可能な偶発性に左右されるものであり・・・ ○・・・進化生物学では、「進化」とは端的に事実(遺伝的性質の累積的変化)を指すものであり、それ自体よい意味もわるい意味もない・・・ ○・・・でも私たちの通常の用例において、「進化」はたんに事実を表す言葉ではない。それは必ず、「進歩」「改良」「向上」「発展」「前進」といったプラスの価値を帯びている・・・ ○・・・成功者の訓話なども進化論風に飾られて重宝される・・・成功者が成功したように見えるのは、淘汰され絶滅していった大量のサンプルを無視して一部の生存者のかぎられたサンプルにのみ着目してしまうという「生存バイアス」による錯覚なのかもしれない。お守りとしての進化論は、このバイアスによって仮構された発展法則にかぶせられるもの・・・ ○・・・環境の変化にフレキシブルに対応してこを進化できるんだ、なんて言われるが、これなどは目標はよくわからんがまあとにかくがんばれというシーシュポス風の苦役ではないだろうか。生存バイアスという錯覚だけが頼りの精神論・・・ ○・・・現代の「社会ダーウィニズム」は、こんな風に叱咤激励する。いわく、変化する環境に適応できない生物は絶滅してきた。ビジネスにおいても変化を恐れて逃げまわっているようでは淘汰されてしまう。自己を変える勇気が必要だ・・・ ○・・・でもそれは自然淘汰説がトートロジカルに正しいだけなのであって、環境がどのように変化するか、それにたいしてどのような戦略をとるかを考えなければ情報量ゼロである。 ○そんなことくらいわかっている、となれば具体的な提案が必要になるわけだが、そうなったらそうなったで、こんどは調査や研究による仮説の集合体をこしらえなければならないのだから、当然ながらまちがえたり失敗する可能性がでてくる。 ○もちろんそんなこともわかっているというのであれば、そもそも進化論風のお題目など最初から出る幕がなかったのではないか、ということになる・・・ ○・・・適者がなぜ適者であるかは、生き延びて子孫を残したこと自体によって定義される。その意味で自然淘汰説は一種のトートロジーを含むが、これはたんに適者に基準を与えるものだと理解すれば、なんお問題もなくなる・・・ ○・・・しかし、私たちの社会通念となっている進化論的世界像においては・・・自然淘汰説に含まれるトートロジーを自然法則のようなものとみなしたうえで対象の事物にかぶせるという言葉の呪術に用いられる・・・ ○・・・スパンドレル・・・ゴシック建築において、ドーム(丸屋根)を支えるアーチ(梁)が直角に交叉した部分にできる、三角形の空間・・・ ○・・・ヴェネチアにあるサンマルコ寺院(大聖堂)では、四つのスパンドレルの各々に福音伝道者がモザイクによって描かれている。各スパンドレルは、その空間に見事にフィットしたデザインをもっている。 ○それらがあまりににも入念かつ調和的につくられているために、思わず、そうした空間は福音伝道者たちを入念に描くために存在するのだと考えたくなってしまう。 ○しかし・・・それでは分析の正しい道筋を転倒させてしまう・・・こうした三角形の空間は、アーチの上にドームを乗せようとすれば、建築技術上どうしても必要となるもの・・・ ○つまりスパンドレルは、建築上の制約から不可避的に生まれた副産物・・・その部分を美しく飾りたてるなどして上手に利用することは、あくまでも二次的な効果・・・ ○・・・ある対象が現在的な有効性をもつことと、その対象がそのようになるにいたった歴史的な経緯とは、それぞれ別の事柄でありうる。 ○それなのに、適応主義はあらゆるものを適応とみなす先入観によって、原理的にそうした区別を考えることができない・・・ ○・・・これでは、スパンドレルを美しく飾るために建物が「進化」したのだ、というような取り違えから身を守るすべがなくなる・・・ ○・・・ダーウィニズムにおいて、自然の匠は偉大でないどころか、なんらかの意図や目的をもって行為をなす主体ですらない・・・ ○・・・なにものも目的としない自然淘汰のプロセスが、その集積の結果として、図らずも天才的な業績を達成してしまうのだ。その次第を示したこと、これがダーウィンの革命であった・・・ ○・・・デネットは、この革命の画期性を「エンジニアリング」の概念を用いて説明する・・・ ○・・・エンジニアリングは、製品や作品の完成度を保証するために、製作過程の諸手順をステップごとに細かく分解した上で定型化する。そうすることで、小さく簡単で単純な手順の集積によって大きく難しく複雑な仕事を完成するという離れ業が可能になる ○・・・もしインスピレーションのみを頼りに、いきなり徒手空拳でパラパラ黄金チャーハンを作ることができたとしたら、あなたは創造的な天才か天賦の幸運にめぐまれた人物であろう。 ○でも、ていねいに調理手順や注意点を記したレシピがあるなら、凡人にも相当によくできたチャーハンをつくることができる・・・ ○この世界は最適な場所ではないし・・・気まぐれな不完全さの集積でありながら、十分に(そきにはすばらしく)うまくいっている・・・ ○・・・それはいわば、過去の歴史におけるそれぞれの状況で手に入った奇妙な部品から構築された、一連の適応からなるまにあわせの仮建築なのである・・・ ○・・・あらゆる歴史の中心原理である“偶発性”・・・偶発性とは「ほかでもありえた」という事態をあらわす概念・・・ ○・・・ダーウィニズムの革命性は、進化を目的も終点ももたないものとして、つまり偶発性に左右されるものとして描いたこと・・・ ○・・・とはいえそれは、物事がデタラメまたはランダムに生起するということではない。生物も他の諸物と同じように、AかDがあらかじめ生じた結果としてEが必然的に生じる、という自然法則に従う。 ○ただそれらは、結果的に「ほかでもありえた」というかたちで生起する。つまり、すべては起こるべくして起こっているはずなのに、結果としてまるで予想していなかった状況が現れるのである。 ○・・・もし「生命史」のテープ」を五億年前のカンブリア紀まで巻き戻して、そこにさして重要でないほんのちょっとした変更を加えたのちにテープをリプレイさせてみたらどうなるか。 ○そこから展開される歴史は、当然ながら自然法則に則った筋の通ったものであるだろうが、しかし現実の歴史とはまったく異なった様相を呈することだろう・・・ ○・・・歴史の行く末をを見通すことはきわめてむずかしい。振り返ってみればそうでしかありえなかったとしか思えない出来事も、その時点において予見できるかどうかとなると話は別だ・・・歴史とはそうしたものだ・・・ ○・・・本能寺の変、アメリカの同時多発テロ、QWERTY配列キーボードの普及、ベータ方式に対するVHS方式の勝利等々、後知恵でもって振り返れば一連の出来事が明確な方向性を持って推移してきたように見えるが、当時それを適確に予見することは不可能だっただろう・・・ ************************************************ 以上の抜き書きを見ていただくだけで、このブログの読者の皆さんなら、私の言いたいことが大たい想像ついてしまうかもしれませんね。 そこで、ここから何を感じるか、どんな意味合いを抽出するかについて、少しだけ考えてみてください。 続編のブログで、私の感想や意味合い抽出を書いてみたいと思いますので、それを読むまでの「宿題」としてください! (*´∀`*)
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