少し前の新聞記事ですが、写真家で、かつ普通大学の文系コースで写真を教えている長島有里枝さんという方のコラムを読んで感じたことを書いてみます。 この方は、2年前から学生に写真を教えはじめてから、学生が良く口にする「インスタ」なるものを知っておいた方が良いと思って、インスタグラムを始めたのだそうですが、それにまつわる以下のような経験や気づきを記しています。 ————- ・・・インスタを始めると、すぐ自分の変化に気づいた。まず、どこにでも持ち歩いているフィルムカメラの代わりに(またはそれに加えて)、スマホのカメラ機能を使うことが増えた。それからたった2~3カ月で、あとでインスタにあげようという魂胆が写真家としての矜持を打ち負かし始めた・・・ ・・・インスタグラムについて考えると、赤ん坊だった息子の後ろ姿・・・二足歩行もおぼつかない彼が、小さなミッション――テレビを点けたり消したりするとか、引き出しの中身を全部出すとか――を遂行しては、こちらを振り返る。それは、自分が見守られていることを確認し、その人の存在に勇気づけられ、再び世界へと一歩踏み出すのに必要な行為なのだと・・・ ・・・インスタグラムは、自分を見ていてほしいという欲求が子供だけのものではないことに気づかせてくれる・・・もし、あの頃インスタグラムがあったら。シングルマザーとして、沈黙のなか子育てに奮闘しても、写真家の自分とちがって誰からも顧みられない。その悔しさをわかってほしいと思っていた私は、迷わずインスタグラムを始めていた気もする。 ・・・インスタグラムが承認を得やすい(「いいね」やフォロワーを増やせる)自己を構築しがち・・・であるのに対し、私の慣れ親しんだ表現には、承認されなくてもいいいという「開き直り」がある気がする。誰に見せるあてもなかった写真を世に出そうとするとき、なぜ見せるに値すると思うのかという問いとの対峙は避けられない。このとき私の背中を見まもるのは、褒められないからといって存在価値が低いわけではないという信念だ。インスタグラム的な写真に慣れ親しんだ学生に伝えたいのはそのような表現のありかた、他人の共感が得られるあなたである必要は必ずしもない、ということかもしれない。 ————- 私がこの記事の前半を読んで再認識したのは、新しい経験に身を置いてみることで新たな自己を見い出すことができるということであり、新たな経験・環境、つまりそれまでの慣れ親しんだことでないものに実際に触れてみることの重要性です。 「新たな自己を見い出す」と書きましたが、最近読んだ「脳は『ものの見方』で進化する」(ボー・ロット著)という本によれば、単にそれまで気づいていなかった自分の新しい/別の面を見い出すのではなく、実際に「脳が変化する」のだそうです。そしてこの本によると、こうした脳の変化は、何歳になっても起こるのだそうで、だから私達はいくつになっても、意図的に新たな取り組みや経験・環境に身を置き続けることでイノベーションの発想を得られる、ということだと解釈しました。 長島さんの記述に戻ると、後半では、インスタグラムを通して見い出したことと、これまでのプロの写真家としてのあり方や活動を対比しつつ、この2つ(インスタグラム体験vsプロの写真家としての立ち位置)の関係を整理し、定義し直しています。 前者では「承認を得ることが重要」、一方後者では「承認されなくてもいいという開き直り」があり、ほめられないからといって存在価値が低いわけではない、という信念が再認識され、強化されていることに注目したいと思います。 つまり、ボー・ロット氏の本の記述と照らし合わせると、人は新たな経験によって、脳に変化が起こり、認識が変化するけれども、それによって、それまでの認識が否定されるわけではなく、新たな認識によってこれまでの認識が再定義される、つまりリフレーミングがおこる、 リフレーミングによって、過去の認識がむしろ、ダイナミックに強化され、新たな認識と融合・統合される、従って、少し大げさにいうと、認識主体である人間としてリボーン(再誕生)するということです。 あらためて、色々な経験や新たな環境に身を置くことにトライしつづけ、「日々」とはいかないまでも少なくとも「年に1~2回」は、旅行など、意図的に自分でリフレーミング/リボーンの機会を作って行こうと思った次第です。 加えて、長島さんの【「他人の共感を得られるあなたである必要は必ずしもない」ということを学生に伝えたい】に倣って、私もリフレーミング/リボーンでの気づきを、仕事やプライベートで交遊する若い人たちに伝えて行きたいと思います。
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