様々なものの見方の存在への理解と受容、そして究極の選択について |
2つの記事を読んで、ブログタイトルにしたテーマについてつらつらと考えてみました。いつも以上に話の❝飛び/跳び❞が多い文章になっていますが、皆さんの心と頭への、できれば建設的方向への刺激になれば幸いです。 まずは1つ目の記事の引用からはじめたいと思います。 ①[タリバン復権後のアフガニスタンの女性に対するわれわれの眼差し(學士會会報 No.953(2022-Ⅱ)の辻上 奈美江氏の論説より)] 二〇二一年夏、アフガニスタンでタリバンが政権を掌握すると、世界中のメディアがふたたびアフガニスタンに注目した。日頃、海外の情報が少ない日本のワイドショーでもたびたび報じられ、そのなかには女性に関するテーマを扱うものも少なくなかった。 …タリバン復権でわれわれが「女性の権利」に関心を寄せたのは、ジェンダー問題に対するわれわれの意識の総体的な高まりよりは、むしろ交差性と関連しているのではないかと思われる。ブラック・フェミニズムの視点から「交差性(intersectionality)」を提唱するキンバリー・クレンショーは、差別は、人種、宗教、性差、階級、年齢、障がいの有無などのさまざまな要素が、相互にかつ複雑に絡み合って構成される、と論じる。たとえば黒人女性の場合には、人種差別と女性差別の少なくともふたつの要素が相互に作用する。さらに年齢や階級、障がいの有無が、特定の「黒人女性」を複層的に差別構造の深淵に閉じ込めてしまうことがあるという意味である。 (⇒以下に記事を受けた上での私のコメントを記します。) ⇒昨年来の日本の空気感の中では勇気ある発言と感じましたが、全体としてバランスのとれた論旨だと思いました。そして、「ものごとには色々な見方があるのだ」とあらためて考えさせられました。 …驚いたのは家族のありようです。私の家族観や考え方そのものを打ちのめしてくれました。
をあらためて感じた次第です。 |
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