メタバース関連記事にインスパイアされて、「分人民主主義」というのを思いつきました |
最近ホットなトピックになっているメタバースに関連する記事に触発されて&そこからかなり発想が飛んで、「分人民主主義」というのを妄想してみました。まずは、きっかけとなった記事からの抜すいです。 [メタバースが開く未来 独自経済圏にも期待(2022年4月9日日本経済新聞朝刊 「今を読み解く」というコラム記事(東京大学教授 稲見昌彦氏)から] (⇒以下に記事を受けた上での私のコメントを記します。) メタバースという単語が新聞の紙面を飾るようになって久しい。多くの読者は「ゴーグルをつけて、ゲームを楽しむもの」と思っているかもしれない。そんな先入観を覆しメタバースが社会や経済にもたらす豊かな可能性を、当事者の立場から解説した書籍が立て続けに登場したので紹介しよう。 …一方でメタバースの「住民」側の視点から書かれたのが、VTuber(バーチャルユーチューバー)として活躍するバーチャル美少女ねむの『メタバース進化論』(技術評論社・22年)だ。みんなでメタバースに入ったまま就寝する「VR(バーチャルリアリティ)睡眠」や、次第に触覚などを感じるようになる「ファントムセンス」といった、加藤の「身体性」と呼応する体験談はもちろん、既存のユーザーを対象にした大規模な「国勢調査」の結果が面白い。厳密な社会調査ではないが、男性の76%がアバターの性別としては女性を選ぶという。 このようなアバターの在り方を、ねむは作家の平野啓一郎が提唱した「分人」の概念を引いて、1人に潜在するいくつもの人格の1つが具現化したものと見る。メタバースは、1人のユーザーが複数の「分人」を切り替えて人生を送る機会を与えるという見方だ。その先には、個人の代わりに分人を基本単位とする「分人経済」が誕生すると予測する。 ⇒「分人」という言葉はこれまで聞いた記憶がないのですが、概念としては非常にしっくりきました。 1人の人が何かの意思決定をする時、たとえば、これから家を買おうとする時、住環境を重視するか/ 職場への通勤時間を重視するか/ 価格を重視するかetc.etc.、複数の価値判断尺度に照らして、総合的に最も自分にとっての満足感や納得性の高い選択肢を選びます。 もちろん、住環境最高、職場への通勤時間最短、価格も最安という選択肢がみつけられれば言うことはない/ 迷うことはないのですが、通常そんな都合の良い選択肢はみつからないので、やむをえず「あちら立てればこちら立たず」状況でのトレードオフ判断をせざるをえないのです。 この状況というか思考プロセスを、それぞれの価値判断尺度を最重視する複数の別人格が自分の中にいて、それぞれの人格=分人がチームとして話しあいながら総合的に集合脳として意思決定している、とみることができるのではないでしょうか? 企業や組織の中では個性的で多様なメンバーが、チームとして集合脳として、建設的なディスカッションを通じて意思決定し行動して行くことを目指すべきと考えるのですが、それが各個人の中でも、複数の分人がチームとして集合脳として活動しているというとらえ方です。 その集合脳としての分人チームの活動は、最終的には各々の分人の重視する価値判断尺度間での重みづけをするわけで、その重みづけが1人の人間としての「統合人格」として現われてくるわけです。 ここで少しややこしいのは、同じ人でも「統合人格≒価値判断尺度間での重みづけ」自体が時と場合によって揺れ動くことです。 たとえば、統合人格として「健康の為にダイエットしなくては」と通常思っている人でも、その中には「健康のためには、食欲欲求に引きずられることなく自分を律しよう」という分人Aと、「そんなこと言ったって、一度の人生、好きな物を自由に食べてこそ、生きている甲斐があるじゃないか」という分人Bがいます。 そして「統合人格」において、あるときは分人Aが優勢になったり、別のときには分人Bが優勢になったりする訳で、「揺らぐ統合人格」というのが通常の人間の本質であり、それは決して悪いこととばかりは言えないと思います。(ダイエットのケースでは、個人的には分人Aがもっと優勢であって欲しいと願っていますが…) 記事によれば「個人の代わりに分人を基本単位とする『分人経済』が誕生」とありますが、それならば、ここからは大いなる妄想的飛躍ですが…「分人民主主義」というのもありうるのではないかと発想しました。 現在の民主主義の投票では、一人一票となっており、たとえば、経済政策ではA候補の考えが良いと思う一方、福祉政策ではB候補、安全保障政策ではC候補が良いと思うようなことは、しばしば起きます。 私の見るところ、複数の分人の間の重みづけが、圧倒的に1人の分人に偏ってはいない人の方が、世の中の大半ではないかと思っているのですが、最近はやりの「サイコパス的な人」というのは、重みづけがかなり偏っているのではないかと思います。そして、この意味での「サイコパス的な人」の方が、世の中の大半を占める凡人(=重みづけが偏っていない人)にとって魅力的に映るのではないかと感じています。 なぜなら、重みづけがバラつき、かつ時々にそれが動いている「揺れる統合人格」では、常に自分の中で、葛藤を抱えているため、突き抜けた思い切った選択肢を迷いなく提示することなどできず、そうした迷いを見せず自信を持って言い切る「サイコパス的な人」の言説に圧倒され、その圧倒され感が「サイコパス的な人」をリーダーとしてあおぎたくなるからです。 こんなことを考えている中で次の記事に出会いました。こちらも抜すいで紹介します。 [米「物言うCEO」の苦悩 ロシア撤退は一斉に決断 異論・中立に政治の風圧(2022年4月18日 日本経済新聞朝刊のコラム記事から)] ロシアのウクライナ侵攻から10日あまりたった3月8日。「侵略と暴力に抗議する世界的な動きに加わる」。米マクドナルドのクリス・ケンプチンスキー最高経営責任者(CEO)はロシアで展開する全850店を一時閉鎖する決断を公表した。 …米エール大経営大学院の調査によると、ロシア事業の停止や縮小を表明した企業は4月8日時点で600社を超えた。ここまで多くの米企業が一斉に動くのは、1980年代に約200社が参加した南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策への反対活動以来といわれる。なぜ迅速に足並みをそろえられたのか。 素地は米国内にあった。カギを握るのは同大学院の調査を主導するジェフリー・ソネンフェルド教授の存在だ。 …今回は「ロシアのウクライナ侵攻に対応していない企業」を一覧にして、企業が「恥をかく」風潮づくりに一役買った。 仏HEO経営大学院のアルベルト・アレマノ教授によると、企業がロシア事業を巡る決断に要した時間は平均7日。 …だがアレマノ氏は「立場を曖昧にしたままでは許されないと企業が判断した結果だ」と話す。「問題は今後、人権問題などほかのテーマでも企業が同じような決断を下せるかだ」 ロシアのウクライナ侵攻のような「明白な悪」は例外的だ。価値観が二分する米国内の話題では経営者は難しい判断を迫られる。 「家族に優しいイメージで財を成したにもかかわらず、保護者の意思をないがしろにしている」。南部フロリダ州のデサンティス知事(共和党)は、米ウォルト・ディズニーを自分たちの価値観を押しつける「woke(社会正義に目覚めた)」企業だと名指しした。テーマパークを運営する州随一の雇用主に対し、優遇措置の撤廃までちらつかせる。自らが署名して成立した通称「Don’t Say Gay(ゲイと言ってはいけない)法」をボブ・チャペックCEOが批判したからだ。 同法は、主に小学校で性的指向や性自認について議論することを禁じる。民主党はこれに強く反対する。チャペック氏は当初、中立を保とうと試みた。一方、性の多様性を重んじるディズニー従業員の一部は「ウォークアウト(一時的な職場放棄)」を計画して経営陣に行動を迫った。チャペック氏は結局声を上げたものの、社内には禍根が残り、20年のCEO就任以来、最大の危機に直面している。 ソーシャルメディアが言論の主戦場となり、企業が対応を間違えれば消費者や従業員から「キャンセル(抹消)」されかねない。 …調査会社カンファレンス・ボードのポール・ワシントン氏は「企業に政治的発言を求める圧力がさらに高まるとみて、担当者は身構えている」と話す。ロシアの暴挙に対して企業は異例の団結をみせたが、米国内の分断は残ったままだ。政治と従業員・消費者の板挟みに遭う経営者の苦悩は深い。 ⇒記事にあるように、複数の価値判断尺度がせめぎあい、どの価値判断尺度を重視するかによって、とるべき選択肢が大きく違うことにより、経営者が非常に難しい判断を迫られているわけです。 ここで私が着目したのは、チャペックCEOに行動を迫ったのが従業員の「一部」という部分です。勝手な解釈ですが、行動を迫ったのは従業員の中で、「LGBTQの権利を重視」という価値判断尺度に圧倒的に大きな重みづけをしている人達で、それは従業員の大半を占める訳ではなく、大半の人達は、「LGBTQの権利重視」と「そうでない保護者の人達の権利にも配慮すべき」という2つの価値判断尺度の両方ともに共感をもつがゆえに、(多分60:40 ~ 40:60くらいの比率で?)「ウォークアウト」という行動にまでは踏み切らなかったのではないか、という想像です。 つまり、複数の価値判断尺度間の重みづけが圧倒的にどちらかに寄っている人達(先の定義の意味での「サイコパス的な」人達⇒言葉としてあまりに強く不穏当なので、「揺れない」人達と呼ぶことにします)は鋭い意思表明ができたり断固たる行動に移せるのに対し、そうでない「揺れる」ないし「どっちつかず」の統合人格の人達は決然たる言動がしずらく、結果として「揺れない」統合人格の人達の考えが(全体に占める人数比率以上に)大きな影響力をもってくるのではないか、ということです。 ここからの連想、さらなる飛躍ですが、現在のアメリカをはじめとする民主主義社会の、いわゆる「分断」現象も「揺れない」人達の意思表明・投票行動の強さがもたらしているのではないか、という仮説です。 社会が複雑化し、様々な難しい課題が次々に出てくると、複数の価値判断基準のどれを重視するかで、大きく異なる選択に直面することが多発します。 この時、「揺れる」統合人格の人達は、自分自身が揺れているが故に、決然とした意思表明や行動ができません。 一方、「揺れない」人達は、決然と、強い説得力を持って、自信と確信をもった言動ができる訳で、多くの場合、どの価値判断尺度を圧倒的に重視するかで、複数の、大きく異なる「揺れない」人達のグループが出現します。 この異なる極端な「揺れない」人達が、(雑ぱくな言い方を許してもらえば)急進右派vs急進左派といった現象となって強い主張をくり出して大きな影響力を持つことになり(たとえ、それぞれ全体のせいぜい5~10%しか占めていなくても)、一方で大半の「揺れる」人達はその間で右往左往したり、明確な意思表明ができない状態になる訳です。 そして、選挙での投票においては、一人一票制度のもと、それぞれ説得力をもつ急進右派か急進左派のどちらかに投票せざるをえず(この場合、中道的選択肢を提示する候補がたとえいたとしても、多くの場合、「揺れる」人達からみても、急進左派、急進右派に比べて説得力や自信度的に魅力的に映らないため)、選挙の結果によって、大きく国としての方向性がぶれるし、かつ常に「分断された社会」といった様相に陥るのではないか、という仮説です。 ということで、大半の「揺れる」人達の民意を政治に反映させる為に、1人1票を分割して、分人単位で(1人の人の各分人の投票の権利は、合計一票とした上で)行ったらよいのではないか、という着想です。 残念ながらまだ、この着想をどう具体的に進めるのか、そこで想定される様々な問題にどう対処するかまでの構想には、まだたどりついていません。 今回のブログでは、まずはこの着想を皆さんにお伝えする、というところまでで、とりあえず筆を置きたいと思います。中途半端で恐縮ですが、多少でも面白く思って頂ければ幸いです。 |
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