前回のブログ([格差問題と億万長者の功罪~天才突出・駆動型社会と凡人チーム衆知・錬成型社会~])の延長上の問題意識で、もう一つブログ記事を書いてみます。(かなり長文になってしまったので、(1)、(2)に分けて掲載することにします。)思考のトリガーとなった記事の紹介とともに論じて行きます。(「⇒」以下に、記事を受けた上での私のコメントなり思考展開を記して行きます。)1⃣[「弱さ」を競い合う社会 「曖昧な弱者」存在認識を 伊藤昌亮 成蹊大学教授(2024年1月30日付 日本経済新聞朝刊のAnalysisというコラムの記事より)]SNSなどで、社会的「弱者」をめぐって2つの動きが目につく。一つは弱者たたきだ。…もう一つが弱者争いだ。弱者へのバッシングのたびに、「自分だってつらい」「自分のほうがつらい」といった、弱さを競い合うかのような言説が飛び交う。…その背後にあるのは、弱者観をめぐる軋轢(あつれき)だろう。「誰が弱者なのか」という問いをめぐって対立が生じている。…今日のいわゆる弱者観を規定しているのはリベラリズムの思想だろう。それは2つの政治的概念によって形作られてきた。一つは「分配」である。とくに貧困に苦しむ経済的弱者に分配をもたらすことが眼目とされる。低所得者、失業者、高齢者、障害者などが対象とされ、福祉国家論の考え方から、人々には公的扶助や社会福祉が提供される。もう一つは「承認」だ。とくに差別に苦しむ文化的弱者に承認をもたらすことが眼目とされる。とりわけジェンダー(性差)とエスニシティー(民族性)に関わる少数派、すなわち女性、LGBTQ、外国人、有色人種などが対象とされ、多様性に重きを置く「アイデンティティーポリティクス」の考え方から是正措置が提供される。…これらの弱者はわれわれの社会的合意の中で明白に規定されている存在だという意味で、「明白な弱者」だと言えるだろう。ところが近年、そうした枠の中に収まりきらない、いわば「曖昧な弱者」が増えてきている。社会保障制度の対象となるほどの困窮者ではなく、人権政策の対象となるような被差別者でもないが、それぞれの困難さを抱え、いわゆる社会的排除の状態に置かれているような人々だ。…「明白な弱者」の概念が強化された一方、それらの属性を持たないがゆえにマジョリティーの中にいた人々は、さまざまな事情でいかに排除されている状態にあろうと、承認を与えられることはなかった。むしろ多数派として強者扱いされてしまう。結果、弱者でもあり強者でもあるような「曖昧な弱者」が大量発生したのだ。彼ら彼女らは、明白な弱者に与えられている分配や承認に自らもあずかろうとして、「自分だってつらいのに」などと訴えながら弱者争いを繰り広げる。明白な弱者への倒錯したやっかみから、弱者たたきを繰り広げる。近年起きているのはこうした現象であろう。その際、曖昧な弱者の敵意は明白な弱者に向けられるだけではなく、分配や承認がそこに与えられるよう主導しているリベラル派にも向けられる。とりわけ昨今は、「承認」をめぐる社会運動が世界で大きな盛り上がりを見せているため、マイノリティーと連帯しようとするリベラル派への反発が著しい。…リベラル派は少数派と連帯し、その声を増幅することで、権力側の多数派に対して反権力の側から異議を申し立てる。そうした運動を担っているのは、とりわけ人権問題に強い関心を持つ層、とくに知識人やマスメディアなどだが、同時に大きな声を社会に届けることができる層でもある。しかし曖昧な弱者の側から見ると、そうした層に主導されるリベラル派は、特定の少数派という明白な弱者の肩ばかり持ち、大きな声を一方的に押し付けてくる上から目線の存在=権力者に見えてしまう。ここにはもう一つの権力勾配が生まれ、リベラル派はその上層に位置する、いわゆる「文化エリート」だと見なされる。それらに対抗するために曖昧な弱者は、多数派を主導する、いわゆる「政治経済エリート」と結託し、右傾化していく。その結果、左右対称の構図が形作られることになるが、それはかつてのような単純な二項対立に基づく構造ではない。マジョリティーとマイノリティー、リベラル派と右派、明白な弱者と曖昧な弱者との対立を含み、さらに二重の権力勾配の上に成り立っている。…では、そのような状況を打開するには、なにをすればよいのだろうか。簡単な解は存在しないが、1つの指針を考えることはできる。…新たな「包摂」の概念を構想し、実行していくことから始めるほかないのではないだろうか。⇒最近の社会の分断の本質が、実に明快にシャープに分析されている、「なるほどなあ」と納得・得心し、すっきり理解できた気がします。SNS等で見かける、あからさまな弱者たたきに辟易しつつ、一方弱者たたきの言説を上から目線の「べき論」でバッサリ切りすてるリベラル派の言説にも若干反発を覚えるときがあったので、伊藤教授のこのコラムを読んで、非常に納得感がありました。最近のTVドラマに「不適切にもほどがある」というのがあって、コンプライアンス順守の風潮の中で、いわゆる「明白な弱者」側の権利をあまりに強く言いたてると、組織がぎすぎすしてしまう様が面白おかしく描写されていました。ドラマの結論的には、様々な角度でみたときの「強者」も「弱者」も自分の権利や相手の非をあまりにも強く言い立てたり糾弾しすぎるよりは、お互い「相見互(たが)い」ということで「寛容」の精神で仲良くやっていきましょう、ということだったかと思います。(以上、あくまで私の個人的感想と見方ですが…)伊藤教授が最後に述べておられる「新たな『包摂』の概念」というのも、そういうことなのかなと感じました。そんなことを考えていたところで出会ったいくつかの記事から、分断問題解決へのヒントがほの見えた感じを持ったので、以下に論じてみます。まず結論的に言うと、私が得たヒントは2つです。①「衣食足りて礼節を知る」:「明白な弱者」たたきやそれと一体となったリベラル派への反発の背景には、「あいまいな弱者」側の不遇感があり、その不遇感のストレスからくる「劣念」が、本来彼らがもっているはずの「明白な弱者をいたわる」暖かい高潔な心を上回ってしまっている。この不遇感の最大の要因は、社会に進む経済的格差によって彼らが追い込まれた経済的不遇によるものなので、それを解消に向かうように社会が動いていけば、分断はかなりの程度小さくできるのではないか?! 一言でいうと「衣食足りて礼節を知る」とか「恒産なくして恒心なし」ということなので、まずは「衣食足り」て、劣念が生じにくくなるだけの恒産(財産なり稼ぎ続けられる職業)が持てるような安定的生活基盤の確立が大事ということです。②「富を分かちあう経済システム」:社会の「経済的分断」を解消ないし十分小さくするには、現在の「富を偏在・集中させる経済システム」を「富を分かちあう経済システム」に徐々に変えていくことなのかと思います。上の2つのヒントは私の独創ではなく、以下に紹介するような新聞・雑誌・ネット記事から直接・間接に示唆を得たものです。ということで、早速1つ目の記事から紹介していきます。2⃣[出生率0.72 韓国の警鐘1 「私は産んではいけない」(2024年3月11日付 日本経済新聞朝刊の「迫真」というコラム記事より)]…韓国で「超少子化」が進む。政府が2月28日に発表した23年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の数、暫定値)は0.72。日本(22年に1.26)よりも低く、世界でも最低水準だ。きっかけは1997年のアジア通貨危機。タイバーツの暴落が韓国にも波及し経済は傷ついた。財閥企業の経営破綻、労働者の大量解雇、貧富の差の拡大……。こうした経験が現代の親世代にトラウマとして残った。結果、有名大学を出て、収入が多く知名度が高い財閥系企業に入るという「勝ち残り」を子供に迫るようになった。韓国には「いとこが土地を買うと腹が痛い」ということわざがある。共に暮らす家族の慶事は一緒に喜ぶが、血縁関係が近くても他家の成功には嫉妬するという韓国人の気質を指す。その気質が、我が子への圧力をより強めた。韓国の若年層の問題に詳しい漢陽女子大の平井敏晴助教授は「子供たちは親から強いられた受験、就職の競争で疲弊しきっている」と分析する。この10年で若者の考え方は大きく変化した。SNSにあふれるきらびやかな世界に触れ、現実との差に打ちのめされるようになった。今の韓国には生きづらさと将来への不安が影を落とす。特に強く感じるのが女性だ。⇒この記事自体は、少子化問題についてのものなのですが、私は「経済的苦境に追い込まれることで、他人の成功に嫉妬する傾向が強まる」という観点で「なるほど」と感じました。こうした傾向は、程度の差こそあれ、韓国に限ったことではないと思います。経済的な苦境にない、そこそこちゃんと暮らせているときには、自分より恵まれた人に対する嫉妬心は全くなくはないものの、「嫉妬心などは、本来卑(いや)しい(⇒劣った)感情であり、自分は高潔な人間としてふるまいたいので、こういう感情はおさえ込むべき」となるわけです。それが、経済的な苦境に追い込まれると「高潔な心」の量を「卑しい感情」の量が上回ってしまい、嫉妬心をあらわにした言動が表出してしまいやすくなるのです。こうした「卑しい感情」は嫉妬だけでなく、社会的に自分より弱者と思う人達に対する差別感情などもあり、それらも含めて、仮にここでは「劣念」と呼ぶことにします。(もともとは「劣情」と言いたかったのですが、調べてみると、「劣情」というと性的ニュアンスと結びつけられることが多いとのことだったので、あえて「劣念」という造語を使わせてもらいたいと思います。)「劣念」としては、嫉妬や差別感情に加え、先々の社会全体ないし公的な便益より目先の自分の満足や個人的な楽しみを優先させたい、という心もあります。地球環境問題を考えて慎むべきだとは思っても、ついつい「これくらいは、ま、いっか」という行動や、誰も見ていないところでは、あとあと人の迷惑になることでもついやってしまう、というものです。経済的に余裕があり、それに裏うちされた心の余裕があれば、通常こうした劣念は「いや、それは人としてやってはいけない。自分はそんなことはしない人間でありたい」という高潔心で抑えこめているのです。経済的余裕がなくなればなくなる程、高潔心のキャパシティレベルを越えるほどに、劣念が大きくなってしまうのです。経済的余裕も含めて、どんなに苦境に追い込まれても、劣念の量が大きくならない and/or 高潔心のキャパシティが圧倒的に大きいのは、キリストとかお釈迦様といった聖人君子だけです。残念ながら、大半の凡人は苦境に追い込まれれば「劣念>高潔心」になってしまうものだと思います。1⃣の記事の「あいまいな弱者」の人達も、経済格差が主因となって劣念が高潔心を上回ってしまっている。そして通常の、ある程度余裕ある経済状況なら、明白な弱者に対する差別心や、彼らを支援するリベラル派など社会的強者に対する嫉妬心といった劣念をおさえこめていたのが、もはやできなくなってしまったことから生じた言動なのではないかと感じるわけです。その観点から、次の3つ目の記事が、経済的余裕が「高潔心>劣念」をもたらす、という意味で思い起こされました。。。。ということなのですが、ここまででかなり長くなってきたので、この続きは(2)で論じたいと思います。
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