8月15日は、言うまでもなく第2次世界大戦の日本における(太平洋戦争の)終戦記念日です。私自身は戦後生まれですが、それでもやはりこの日は色々なことが心にしみる気持ちの状態になるようで、この日の幾つかの新聞記事が心に刺さり、様々なことを考えさせられました。 そんな感じたこと・考えたことを、つらつらと書いてみたいと思います。(結論的なことはあまりないので、ブログの中の「日常雑感・プライベート」のカテゴリーにエントリーしておきます。) 以下に幾つか気になった記事の内容と、そこから私が感じたことをとりとめなく記してみます。「⇒」以降の太字の文章が、私の感じたこと・連想したことです。なお記事の内容は、記憶だよりのところも多いので、正確性に関しては大目に見て頂ければ幸いです。 ******************************************************* ①経済のディジタル化により、後発発展国/発展途上国から、いきなり先進国を追い越す事業やサービスが出てきて、それが世界を席巻することがどんどん起きてくる。逆に、いっとき世界を席巻したサービスや製品が、次の革新的サービスやビジネスモデルによって、あっというまに衰退・消滅しうる。 ⇒ディジタル経済で想定しているキーワードは、AI、IOT、ビッグデータ、シェアリングエコノミー、自動運転、電気自動車、またそれらを背景とするGAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)の巨大化と市場独占etc.etc.だと思いますが、主旨としては、まさにそういうことだと思います。 事業やサービスの盛衰の頻度が大きくなり、また興隆・成功と衰退・不成功の振幅がこれまでに比べて格段に大きくなると、我々は、好むと好まざるとにかかわらず、ある種「ギャンブル」ともいうべき、極端に大きな振幅のある経済の中で生きることを余儀なくされるのではないか、と感じます。 そして、その中で生きる各人は当然、成功を目指して頑張りぬくことをこれまで以上に求められるのではないか。そうした状況をチャンスと見て張り切る人たちがいる一方で、振幅の激しさに疲れて心身を壊す人たちも出てくるのではないか。確率的には、張り切る人たちの大半は不成功に終わり、その不成功の振幅の激しさに耐えられなくなり、強い不満を抱く人達も出てくるのではないか。またそれにより、社会全体の貧富の差や幸・不幸の差も格段に大きくなるのではないか。。。などということが思い浮かびました。 とりわけ私が心配に思うのは、こうしたディジタル経済での成功と不成功の振幅の激しさは、本人の実力・努力度合いの違いよりも、運不運による振幅度合いの寄与の方が桁違いに大きいのではないか、ということです。すると不成功に終わった人たちには「なんで、たまたま運のよかったあいつらだけがあんなに良い目を見てるんだ。不公平じゃないか。。。」と思いがちになるのではないか。既にその種の鬱積・不満の兆候が、昨今の世界各国に見られるポピュリズムに繋がっているのではないか。。。 もちろん、こうした鬱積・不満の感情自体、「そういう社会の仕組みを自ら受け入れたうえで挑戦し戦った結果なのだから、結果が不成功に終わったからといって不満を抱くことは単なる甘えだ、不満を言い募る資格はない!」と切り捨てることは、理屈としてはありかもしれません。しかし、鬱積・不満の感情は、「べき論」としての理屈ではコントロールしがたいものですので、大きな社会問題になりうることは確かだと思います。 今の私に「で、どうするか?!」の処方箋があるわけではないのですが、個々人の実力や努力度合いの振幅に対して、結果の振幅が桁違いに大きすぎること、つまり「経済の過大なギャンブル性」に対しては、社会全体や個人の精神的安定をある程度のレベルに保つために、何らかの是正措置が必要になってくるのではないか、という気がしています。 かなり妄想的な極論を言えば、一定レベルを越える資産や収入に対しては、「過大ギャンブル性・補正措置」として全額を社会還元してもらう、というやり方もあるかもしれません。。。「どのレベルの上限値にするか」という点だけでも、コンセンサスが得られる可能性は低いと思いますが。。。 もちろん、「ある国がそんなことをすれば、起業家精神旺盛な人たちは、みな他の国に移ってしまうので、その国や社会の経済は発展せず、結局、縮小・衰退に向かう」、という反論はすぐに思い浮かびます。しかし、経済・社会の過大ギャンブル性による弊害と、起業家精神の低下による経済低成長という弊害のバランスの中で、的確な最適解というかHappy妥協点を模索する必要が出てきているのではないか。。。という思いがするわけです。 ******************************************************* ②「インドネシアで最も成功した大統領はスハルト氏」世論調査機関・・・・・が民主化20周年に合わせて発表した調査・・・現役のジョコ氏も含む歴代7人の大統領の中で、最多の3割強の国民が、30年に及ぶ長期独裁政権の指導者に最高の評価を与えたのだ・・・スハルト時代には・・・言論の自由など基本的人権は著しく制限された。スハルト政権崩壊による民主化後、こうした国民監視が弱まったことが皮肉にもテロを呼び込んだ面も否定できない・・・ ⇒こうした背景から、インドネシアの現政権は強権的傾向を強めており、そうした強権的手法は、フィリピン、カンボジア、タイ、ミャンマーなどにもみられるということが記事の後段に書かれていました。加えて、中国、ロシア、トルコはもちろんのこと、アメリカやヨーロッパでもポピュリズムと独裁的強権指向の流れが見て取れると感じます。 アメリカやヨーロッパでのこうした傾向の背景には、①で触れた貧富の格差の拡大や社会の二極化があるのではないかと思いますが、独裁政権的な状況にある中国やアジア諸国では、大半の人達が、民主主義的な「自由や人権・平等」という価値観よりも、当面の「安全と経済的豊かさ(⇒カネ)」の方を重視していて、意外にもHappyそうに見えます。 やはり、まずは「命あってのもの種⇒安全」「飯が食えてなんぼのもの⇒経済的豊かさ(カネ)」の方が重要。本来その先に「自由と人権・平等」を求めたいが、前者と後者がトレードオフ(=あちら立てれば、こちら立たず)になる状況では、前者を優先する人が多いのが人間の性なのでしょうか? 本来は「安全とカネ」と「自由と人権・平等」は両立するはずだし、むしろ「自由と人権・平等」が「安全とカネ」をけん引する、と信じてきた先進国の人達の間で、結局「自由」の帰結が、貧富の激しい差という「不平等」に繋がり、「カネ」に大いに困る人達が増えている状況では、独裁国家の「自由は無くても安全とそこそこのカネは保証してくれる」社会の方が、説得力を持ちはじめているのでしょうか? ******************************************************* ③米国と中国の貿易戦争が現実味を帯びてきた・・・この対立はただの通商摩擦ではなく、大国の興隆をかけた覇権戦争の様相を呈している・・・米中覇権争いが激しくなるにつれ、日欧は新たな対応を迫られるだろう・・・ ⇒今の私に、このテーマについて何か論陣を張るだけの知識も見識もありませんが、中国関連で事業を行っている企業は、この問題について、自社として何らかのポリシーなり意思決定のガイドラインを作っておく必要があるのではないかと感じます。 上の②のテーマ的に言えば、「安全とカネ」を重視し、「自由と人権・平等」の部分には多少目をつぶって、中国政府に身の安全を守ってもらうための施策を打ちつつ、企業としての売り上げや利益を最大化することを目指すのも、一つのやり方でしょう。一方、「自由と人権・平等」な社会を阻害する活動や状況には決して手を貸さないことを第一とし、それを犠牲にしてまでの売り上げ・利益は追及しない、というやり方もあるでしょう。 もちろんこの両極端のスタンスの間に、様々な自社なりの現実解があるはずで、各企業は今後の企業経営の中で、あらためて自社の哲学的価値観を自問しながら判断して行くのだと思います。 ******************************************************* 以上、8月15日に感じた「ディジタル・エコノミーによる産業構造の激変」「20世紀をけん引してきた自由と平等の理念が大きく揺らぐ兆し」「し烈さを増す米中の覇権争い」についての雑感を、とりとめなく書いてみました。総じて思ったのは、「いま まさに激変の時代」だということです。 。。。。。と書きつつさらに思うのは、1945年8月15日だって、それこそまさに今以上の激変の時代だったということです。今の激変とは全く違うタイプの激変だったわけですが、考えてみれば人類の歴史の中で、「激変でない時代」の方が稀だったはずです。その時代時代で、常に先例のない事態に直面し、経験則がほとんど適用できない状況の中で、それなりの意思決定を、各人、各集団・組織・企業、各国・各地域が、それぞれの選択肢・不確実性・価値判断尺度のもとで、都度都度ジタバタとやってきたわけです。 その意味で、少し飛躍しますが、終戦記念日の8月15日にあたって必ず言われる「2度と戦争は起こさない」「不戦の誓い」といった言葉にも、私自身は少し複雑な思いを持つ部分もあります。自分から侵略戦争を仕掛けることなど、もちろん論外です。しかし、戦争の悲惨さを絶対に避けたいという考えの延長で、「外国から侵略戦争を仕掛けられ場合、国民が死なずに済む可能性を高めるには、戦ったり抵抗したりせずに、相手の言いなりになったほうがいい!」とまで言い切ることができるか、と考えると中々簡単には結論は出ないと思うのです。 レベルと切り口が違いすぎるかもしれませんが、上の③に関連して、一企業にとっては、: 【「自由と人権・平等」の価値観に抵触するような行動を強いられるくらいなら、そうした状況の中では事業を行わなくていい。その結果、売り上げや利益成長が阻害されても甘んじて受け入れる。自分たちの哲学的価値観が満たされる中で最大限の努力をして、それで成し遂げられる売り上げ・利益レベルにとどまっても一向に構わない。そういう価値観に共鳴する株主だけと一緒にやって行けばよいのだから!】 とまで言い切れるか。。。という問いと、根っこでは繋がっているのではないかと思うわけです。 8月15日ということで多少感情の振幅が大きくなった関係で、通常はあまり話さないようなことまで書いてしまいました。「8月15日」という特別な日に感じたこと、ということで何卒ご容赦ください。
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